2021年3月15日月曜日

 

ペルソナ3の映画をみた

 アイギス以外のキャラの名前を完全に忘れてたけど、見はじめたら次々どんな会話があったかまで思い出した。すごく懐かしかった。
 順平の「空気詠み人知らず」とか、美鶴の「ブリリアント!」とか懐かしすぎて二億年ぶりに聞いたかと思った。
 ゲームやってたときはアイギスとかエリザベスとか(あと同時期にやった4の千枝)の印象ばかり残ってたんだけど、改めてこのペルソナ3という作品に接すると全然各キャラから感じるものが違ってて、そこには驚いた。
 特に、昔はあんまりわからなかったゆかりっちの等身大な魅力がすごくよかった。やる気なさそうな主人公に尖った言葉で発破かけるとことか、順平と絡んで騒いでるとことか、鴨川で落ち込んでる美鶴にビンタするとことか、改めて「いいな」って思ったシーンはだいたいゆかりっち関連だった。

 戦闘シーンは基本ペルソナが光って動いて何かが爆発してるだけだったけど、花火みたいなもので楽しかった。これといって戦略とか駆け引きがあるわけではなかったんだけど、きれいな絵がぐいぐい動いていただけで見てるほうとしては大満足。
 ただ敵に敵としての魅力がいまいちたりないとは思った。シャドウが何にも言わないのはまあしょうがないんだけど、何か物足りない。というか、そもそも『敵らしい敵』がペルソナ3にはいないのかもしれない。
 ストレガの皆さんは、『独自の美学をもった敵』というより、『主要メンバーになれないことを怨む味方』って雰囲気だった。彼らのことはキャラとしては結構好きなんだけど、順平とチドリの話なんて改めて号泣したわけなんだけど、主人公たちの敵としての悪役としての存在感みたいなのは薄かったと思う。いかにも敵っぽいこと喋るけど、基本的には味方と似た価値観と考えをしてて、「こいつらはこいつらの考えで完成してるな」っていう感じではなかった。
 あと理事長はストーリーに大転換をもたらす重要人物なのに、なんであんなことを企てたのかやっぱりよくわからなかった。

 しかしペルソナ3は相変わらず自分の心に深々と『刺さるもの』があった。
 ストーリーの内容より、全体的なトーンみたいなのが、よかった。薄味の人間味(にんげんみ)というか、うまく言えないけど「死にたい」とか「世界を滅ぼしたい」とかいう態度の人間を、揶揄せず描こうとしてるところに、変わらない魅力を感じた。
 あと「非人間的になりたい」というのも「死にたい」と似た態度だと思うんだけど、ペルソナ3には『非人間的』に憧れる人間にとっても実に魅力がある。主人公もアイギスも人間味がいい感じに薄い。私も昔は「あー非人間的になりてぇ」とよく思ったものなので、主人公たちの『人間からのズレかた』には憧れたし、今見てもよかった。
 たぶん「死にたい」が基本路線にある人間が、傷つかず他人と付き合う方法を一人で編み出そうとすると「非人間的になりたい」になるのだと思う。死にたさのあまり何かの『型通り』になって自分を殺したり、弱い自分を隠す『仮面』を被ったりする。
 自分というものを韜晦させるから『非人間的』というのは、面白さもある。しかし、これにはやはりよくない面もある。ペルソナ3の『非人間的』代表ともいえる機械のアイギスは、なんでも命令通りに動いてしまう。それでリモコンで操られたりもする。これは頼まれたから戦っていた最初の頃の主人公と同じだ。主人公とアイギスは似た問題を抱えている。自分自身の心を持たず『非人間的』でいると『受身』の服従に繋がるという問題だ。この問題に立ち向かうため、主人公もアイギスもだんだん仲間から人間味を得て、問題の根本にある「死にたい」と決着をつけようとする。
 抱え込んだ「死にたい」を放っておくと、人は心を捨てて「非人間的になりたい」という方向にいく。そしてそうなった人は、『受身』の態度に陥りやすい。だから「世界を滅ぼしたい」という人に利用されることになって、まずいことになる。ペルソナ3にはそういう構図が繰り返し出てきた。ペルソナ3で一番『敵らしい敵』は、この構図そのものなのかもしれない。
 
 思えばペルソナ3のキャラクターは、「死にたい」とは直接口にせずとも、みんな誰かの死に縛られている。親を亡くした人が何人もいるし、だいたいみんな大切な人を失ってる。みんな何かしらの傷を負って、無理矢理に自分を繕っている。でもそこを暗くしすぎず、偽物の明るさで誤魔化そうともせずに、静かに包み込む作品全体のトーンが、何より素晴らしいものだと感じた。
 繰り返すことになるけど、特にゆかりっちの「死にたい」への態度は、すごく説得力があった。具体的にいうと、序盤の生きたいのか死にたいのかわからない主人公への態度と、終盤のこのままだと間違いなくみんな死ぬって状況への態度。ゲームだとよくわからなかった部分も映画で掘り下げられていて、「こんなにやさぐれて...」と引き込まれるものがあった。

 深く傷ついた人間はむしろ自分から進んで自分を繰り返し暴力にさらそうとする。過去のトラウマをいつまでも忘れられず、自分でわざわざ辛い記憶を掘り起こして、繰り返し苦しむことを何故かしたりする。そういうことからフロイトは、人間には快・不快の欲求の他に『反復の欲求』があると気づいた。そしてその『反復の欲求』から『タナトス(死への欲動)』という仮説を導き出した。
 ペルソナ3は最初から最後まで『タナトス』の話だったように思う。決定的に傷ついた人間は傷を乗り越えようとはせず自暴自棄になり、自分から進んで繰り返し苦しみに『受身』で服従しようとする。心を捨てて『非人間的』になる。大切な人を失った人は、悲しみを乗り越えることより『失った悲しみ』を心の中で繰り返すことを選びたくなってしまう。私の実感としては人間にはそういう『反復の欲求』が、間違いなくある。私の中にも「死にたい」とか「世界を滅ぼしたい」とかいう態度は、今も結構自然にわいてくる。ペルソナ3の映画には、その気分の出どころを改めて見せてもらった気がした。

2020年4月13日月曜日


徒然草について
 徒然草は古典の代表格のような扱われ方をされているが、実際に腰を据えて読んでみると、かなり変な作品だ。よく鴨長明の方丈記と並べられて「無常観の文学」とか言われるけど、徒然草には方丈記ほどの一貫した達観というものはない。
 徒然草はかなりゴチャゴチャしているのだ。特に序盤の記述は内容も書き方もバラバラだし、何か言いたいことがあるのはわかるが、何を言いたいのかがわからない感じがある。その悶々とした感じには実に自分の身にも覚えがあって、親近感を感じるのだが、どう考えても変な文章だとは思う。
 徒然草の中盤から後半にかけてには、このような変な印象はあまりない。時々エキセントリックな話(大根の精霊とか)が出てきたりはするけど、文章を書く兼好法師の悶々とした悩みが取り付いて文章がぐらついているのは序盤だけだ。徒然草は途中から的確になる。
 著者の兼好法師という人は、鎌倉時代後期の人で、その時代に、もう雅やかな宮廷の文化は消滅寸前だった。でも徒然草の序盤には、「をかし」だの「あはれ」だのが頻発する。平安時代の作品の引用やパロディのようなものも、徒然草には多い。語られる無常の思想も、だいたい中国の古い思想を丸々引っ張ってきているだけだったりする。
 もう時代は貴族のものではなく、台頭する武士の勢いに押されて明らかに今までの文化は時代遅れになっていた。そんなときになって、兼好法師は、宮廷の文化を追随して「をかし」だの「あはれ」だのと書き出しているわけなのだ。そこが兼好法師のかなしいところだ。「それどころじゃない!」ってことは、兼好法師も当然気づいていたはずで、その焦燥が、徒然草がゴチャゴチャする理由のひとつであるとも思う。 
 兼好法師はもともとは法師ではなかった。若い頃は蔵人という、天皇の近侍の職員だった。このポジションは平安時代だったら、立派なものだった。なにしろ天皇の諸々の雑事を取りもつ仕事を任せられているわけで、このポジションを若い時に得ていれば貴族としての出世も明るいもの、みたいなものだった。しかし、兼好法師の時代はもう鎌倉時代の末期で、長い長い戦乱の世が始まりかけていて、貴族の社会はもうガタガタだった。そんな中で、卜部兼好という未来を失った青年は鬱屈していた。そして三十ちょっと過ぎたあたりで、卜部兼好は出家した。それが兼好法師となった。
 そういう人間が、達観したいけれど達観しきれない人間になるのは、仕方ないことだと思う。何か言いたいことがあるのはわかるが、何を言いたいのかがわからない感じになるのは、しょうがないと思う。書いたものが、ゴチャゴチャしてしまうのは当然のことのように思われる。
 そもそも、徒然草はいつ書かれた文章なのかも、よくわかっていない。蔵人時代の若いときから書いていた原稿を、法師になってからも思い付いた時にチマチマ書き足していったものという説もあるし、歳をとった兼好法師が、若いときを思い出したりして一気に書いているのかもしれない。原稿をまとめたのも、本人ではなくお付きの弟子だったとかいう話もある。
 そうした事情もあってのことなのか、徒然草には、統一した主張があんまりない。言ってることが前後で矛盾しているところもかなりある。でも兼好法師は、新しい時代に、そして自分の立場に、心を引き裂かれたのだから、ゴチャゴチャになるとわかっていても、書かずにはいられなかったんだろう。
 兼好法師のすごさは、「達観はしたいけれど、達観しきれない」と達観のまわりをぐるぐるしても、ぐるぐるするしかない自分に対して、決してめげないことだと思う。兼好法師は、そうやって段々その自分の中途半端と折り合いをつけていった。自分を的確にしていった。それにすごく励まされる。
 だから、徒然草をありがたい人生の教科書みたいにしてしまうのは何だか違うように思う。そんな変な尊敬をして兼好法師を遠ざけて、歴史上の人間を現代人の役に立つように加工してしまうのは、しょうもない。歴史上の人間も現代人も、そのまま人間なんだから、そういう風に書くしかなかった人間の感情の必然を、そのまま感じればいい。妙ちくりんな後付けの観念を挟む必要はない。徒然草は特にそういうものだと思う。「無常観の文学」とか、理解のためのしょうもない認識の符号は捨ててしまえばいい。それで魅力を失うものでもないから、徒然草は長いこと、読まれてきたのだと思う。

徒然草 序段から第二十九段までの訳
序段
 暇で暇でしょうがないので、一日中硯に向かって、心の中に浮かんでは消えるどうでもいいことを、とりとめもなく書き出していくと、意味不明になってきて、本当に頭がおかしくなってくるんですけど!
第一段
 いやあもう、この世に生まれたからには、是非とも憧れていいってものは、沢山あるんじゃないか?
 帝の御位は、やはり畏れ多い。帝のお子様の、その御子様までが凡人の血筋とは違って、本当に尊い。摂政・関白の振る舞いは言うまでもない、その他の貴族も、舎人などを賜わる身分なら、すごい立派なものに見える。その子ども、孫までは落ちぶれてしまっていても、それでも品がいい。それより下のほうになると、身分相応で、時流に乗って、得意顔してるのは、自分ではいいと思っているみたいだけど、本当にしょうもないぞ。
 法師ほど羨ましくないものはないよ。「人には木屑みたいなもんだと思われてるのよ!」と清少納言が書いてるのも、実際その通りに違いないね。有名になって、世間に騒がれてても、たいしたもんとも思えない、増賀聖の言ってたように、名声は邪魔で、仏の教えとはズレてるように思う。一途な世捨て人なら、なかなかいいところもあるだろうけど。
 人は、容姿や振る舞いが優れているのが、やっぱり理想的だろう、喋っていて、耳障りじゃなく、気配りがあって、言葉数が多くもない人とは、ずっと向き合っていたくなるよね。魅力を感じていた人に幻滅させられる本性を見せられるのは、がっかりだけど。身分や容姿は生まれつきだけど、心は、どうだろうか、より賢明であろうとすれば賢明に、変えようとすれば変わるものだろう。
 人は、顔や性格のいい人でも、知性がなくなれば、格が下がるし、品性の欠けた顔してる連中に混じって、あっさり迎合してるのは、本当に残念なことだ。
 持っていたいものは、本式の学問教養、漢詩、和歌、音楽の嗜み。あとは、伝統的な有職と儀式の知識。人の手本になることは素晴らしいことだろう。字なども下手でなく流暢に書き、声も良く拍子が取れて、迷惑そうにしてはいても下戸ではない、そういうのが、男として良いよなあ。
第二段
 古の聖帝の時代の政治を忘れて、民衆の苦しみ、国家の損害にも気付かず、何でも華やかにしつくせばよいとして、傍若無人に偉そうにする人は、本当に酷く、思いやりに欠けるものに見える。
 「衣冠より馬・車にいたるまで、あるものをそのまま使いなさい、決して美麗を求めてはならない」と、九条殿の遺誡にもあります。順徳院が、禁中のことを書かせなさった本にも、「天皇のお召し物は、粗末であるのをもって良しとする」とあるのです。
第三段
 全てが一流でも、色好みじゃない男は、すごく人として欠けてて、玉の盃に底がないようなものじゃないか?
 露霜に濡れそぼって、行くあてなしにフラフラ歩いて、親の口出し、世間の非難を気にしているから、心に余裕がなくって、ああだこうだで頭の中グチャグチャで、それでもひとり寝ばっかり、まともに眠れる夜はないっていう感じ、面白いよ。
 だけども、ただみだらな振る舞いに走るというのでもなく、女に軽んじて扱われないようなのが、理想的なありかただな。
第四段
 来世のことを心に忘れず、仏の道を気にしないってわけでもないのが、奥ゆかしい。
第五段
 不幸な悩みの中にいる人は、剃髪なんかを安易に選ぶのではなく、いるのだかいないのだかってほどに家の門を閉じて隠って、期待も持たず毎日を暮らしていく、そういう風にしていてほしい。
 顕基中納言が言ったという「流刑の地の月を無実で見たい」というのは、そういう感じだろうなあ。
第六段
 自分が高貴な血筋でも、ましてつまらない身分なら尚更、子どもというものは、無しでいたい。
 前中書王・九条太政大臣・花園左大臣、みな血族が絶えることを望んでいらっしゃった。染殿大臣も、「子孫はいないのが良いものでしょう、末代を残しなさるのはよくないことです」と、『世継ぎの翁の物語』には言われている。聖徳太子がお墓を前もって作らせになった時も、「ここを切れ、そこを断て、子孫は持たないと決めている」とのことだったという。
第七段
 化野の露が消えることもなく、鳥部山の煙も立ちっぱなし、そこに生き続けるのも普通となれば、どうしたって情趣の心もない。
 この世は定まることがない、それこそが大事だ。
 命のあるものを見ると、人間ほど長生きするものはない。かげろうは夕暮れに終わりを迎え、夏の蝉は春も秋も知らないではないか。粛々と一年を暮らせるだけでも、これ以上はない平穏というものだ。満足せず、惜しいと思えば、千年が過ぎようと一晩の夢のような心地となるだろう。永遠には住み続けられない世の中で醜い姿になってどうしようというのか。命長ければ恥も多い。長くとも四十にならないぐらいで死んでおくのが、やっぱり見苦しくないんじゃないのか。そのあたりを過ぎると、見た目に羞恥心も無くなり、人との付き合いのことを考えて、人生の暮れ方に子や孫のことばかり気にして、繁栄の未来を見届けるまでの命を欲しがり、ただもう世俗的に欲ばかり強くなって情趣の心にも関心がなくなっていくのは、心底イヤになる。
第八段
 世にあって人の心を惑わすもの、色欲に並ぶものはない!人の心は愚かなものだよ。匂いなんかはまやかしのものなのに、わざと衣装に薫をたきつけているとわかっていながら、なんともいえない匂いには必ず心が動かされるものだ。
 久米の仙人が洗濯してる女のふくらはぎの白いのを見て神通力を失ったっていうけど、まったく手足の肌なんかにキレイにムッチリ脂がついてるのは、作り物じゃないからね、そういうことにも当然なるよな。
第九段
 女は、髪がキレイであるのが、人の目も惹くようにみえる。身分や心ばえなどは、話をする声の調子で、物越しでもわかるものだ。
 何かにつけて、ちょっとした仕草で人の心を惑わし、全部、女が、気を緩めて眠りにもつかず、自分を惜しいとも思わず、耐えがたいことにもよく耐えるのは、ただもう色恋に執着があるためだ。
 実に執愛の道、その根は深く、源泉は遠い。六塵の欲望、多くはあろうが、どれも突き放せるはず。その中のただこれだけの惑溺のひとつから抜け出せないのは、老いも若きも、頭の良し悪しも、変わるところないと思う。
 だから、女の髪の毛で縒った網にはでかい象もしっかり繋がれ、女の履いた下駄で作った笛には秋の鹿が絶対呼ばれるとかの言い伝えがあるのだな。自分を律して、とにかく慎むべきなのは、この惑溺だ。
第十段
 住まいに調和がとれていて、好ましいのは、仮の世における一時のものとは思うけれども、趣深いものだ。
 素敵な人が、のびのびと暮らしている所は、差し込んでくる月の光も一際しみじみと感じられる。今風ではなく、キラキラしてるわけでもなく、木立も古びていて、わざとらしく手を加えてもない庭の草も自然な感じで、簀子・透垣の配置もよく、何気なく置いてある調度品も古風な感じがして落ち着きがあるのは奥ゆかしいと思われる。
 多くの職人が、精根を尽くして磨きたてた、中国の、日本の、珍しく、何とも言い様のない調度品などを並べ置いて、庭の植え込みまで自然さを残さず作り込むのは、見た目も苦しく、とても受け入れられない。そうしたまま永遠に暮らせるものだろうか。やはり、時の間の烟となるものだろうと、少し見ただけでも思われる。だいたいは、住まいに、その人柄はうかがわれる。
 後徳大寺大臣の、寝殿に、鳶がとまらぬように縄を張っていたのを、西行が見て、「鳶をとまらせないとは、何とも心苦しいことではないか。この殿のお考えはそのようなものであるか」といって、その後は訪れることがなかったとの話があり、綾小路宮の、いらっしゃる小坂殿の棟に、いつだったか縄が引かれていたので、この話が思い出されたところ、「確か、烏が群れて池の蛙をとるので、御覧になってかわいそうにと思われてのことでして」と人の語ったのは、それはそれは印象深く思われた。徳大寺にも、何か理由があったのだろう。
第十一段
 神無月のころ、栗栖野という所を通って、ある山里に足を運んだことがあった、はるばる苔むした細道を踏み分けていくと、ひっそりと暮らしている庵があった。
木の葉に埋もれている懸樋の雫以外には何にも音をたてるものがない。閼伽棚に菊・紅葉などが折って放ってあるのは、やはり住人がいるからだろう。
 「こういう風でも生きてはいけるもんなんだな」と感慨深く見ているうちに、向こうの庭に大きな柑子の木が枝もしなるほど実がみのっていて、その周りがきびしく囲ってあった。そこに少し興ざめして「この木がなかったらな」と思ったな。
第十二段
 同じ感性を持っていそうな人とじっくりと話をして、楽しいことも世の中のつまらないことでも分け隔てなく言い合って気が紛れるならそれこそ嬉しいことに違いないのに、そのような相手はいるはずもないので「少しでも話がズレちゃいけないな」って向かい合って座っている、そんなのは一人でいるのと同じだろう。
 共通の話題を「その通り!」と聞いてるのもいいんだけど、少しは違う所もあるような人とは「自分はそうは思わない」なんて言い争って問いつめて、「だからさ、こうだろ」とか話し合えたら一人で物思いに沈むような気分もなくなると思うんだけど、実際は、ちょっとした愚痴でさえ、自分と同じじゃない人とは世間一般のどうでもいい話するしかないよな、本当の心の友とは果てしなくかけ離れているんだろう、やりきれないよ。
第十三段
 一人で燈火のあたりで本をひろげて見たこともない世界の人を友とするのは、こよない慰めとなることだ。
 本は『文選』の心に響く各巻。『白氏文集』『老子』『荘子』。この国の学者たちの書いた物も、昔のは心に響くものが多い。
第十四段
 和歌というものはやはり楽しいものだ。卑しい賎民、山賊のすることも、和歌に詠んでみれば風流になる、獰猛な猪も「ねどこのいのしし」と言えば可愛くなるよ。
 近頃の歌は、一部分は上手い表現だというものはあるけど、昔の和歌なんかのように、何故なのか、言葉の向こうにしみじみとイメージの広がりが感じられない。
 紀貫之が「糸によるものならなくに」と詠んだのが、『古今集』の中では駄作だとか評判だけど、今の世の人が詠むことのできるような言葉使いとは思われない。当時の歌はスタイルも言葉もこういう調子のものばかりだった。この歌に限ってそう取り立てて言われているのもわからない。(『源氏物語』には、「ものとはなしに」と改変してこの歌が取り入れられている。)『新古今』では、「残る松さえ峰にさびしき」という歌が駄作のように言われているが、実際、少し統一感がないようにも思われる、しかし、この歌も衆議判の時、良いものでありましょうとの判決があり、その後にも、院が特別に感じ入られ、お言いつけなさったとのことが、源家長の日記には書いてある。
 「歌の道だけは昔から変わらない」などと言うこともあるけど、どうだかね、今でも詠まれるのと同じ言葉・歌枕も、昔の人が詠んだものは全く同じではない。単純素朴で、スタイルもすっきりしていて、感慨深く思われるけどな。
 梁塵秘抄の郢曲の言葉というものには、やはり心に刺さるものが多いようだ。昔の人のは何でもないどれほど無造作に出された言葉でも、どれも素晴らしく思われるものなのだろうか。
第十五段
 どこへであるにせよ、少し旅に出てみるのは目が覚めるような心地がする。
 その辺、あちこち見歩き、田舎びた所、山里などは、かなり見慣れないことばかりある。都へ機会をみつけて手紙を書く「そのことや、あのことを、都合のいい時に忘れるな」などと言い送るのが楽しい。
 そのような場所でこそ、多くのことに気づかされる。持ち物まで、良いものは良いとわかるし、芸事にたけた人、見た目のいい人も、普段よりさらに素敵に思える。
 寺や神社なんかにひっそりと身を隠すのもいいものだ。
第十六段
 神楽ってものは本当に、優雅で、魅力的だ。
 基本は、楽器には、笛・篳篥。外せないのは、琵琶・和琴。
第十七段
 山寺に籠りきって、仏の行に励むと、退屈に悩まされることもなく、心の濁りも清められる気がする。
第十八段
 人は、自らをさっぱりさせ、強欲を抑えて、財産を持たず、俗に溺れないことこそが、重要であるだろう。古来より、賢人が富裕なのは稀なことだ。
 中国の偉人、許由という人は、やはり、自身で持っている貯えもなく、水すら手で掬って飲んでいたのを見て、なりひさこ(瓢箪)という物を人に譲られたのだが、ある時、木の枝に懸けておいたのが、風に吹かれて鳴ったのを、「うるせえ!!」といって捨てた。それでまた、手で掬って水も飲む。どれほど、その心のうちはクールであろうか。孫晨は、冬の時期に衾がなく、藁一束あるのを、日が暮れればこれに寝て、朝になったらしまった。
 中国の人は、これをすごいと思えばこそ、書き記して世にも伝えたのだろう、我が国の人々は、語りも伝えようとしないのだろう。
第十九段
 季節の移り変わりというものは、どれも心に響くものだ。
 「情趣の心は秋が優っている」と、どの人も言うようだけど、それはそうとして、さらにひときわ心が弾むものが、春の景色にはあるだろう。
 鳥の声なんか格別春の感じがして、のどかな日の光に、垣根の新緑が芽吹いてくる頃からが、だんだん春もたけなわ。あたりがぼんやり霞渡って、桜もようやく咲きそうにみえる頃であるのに、そういう時に、雨風が続いて、慌ただしく散り終えてしまう。木の葉が青くなっていくまでは、すべてに、一喜一憂させられる。
 橘の花は非常に評判高い、しかしやはり、梅の匂いってものには、昔のことも呼び戻され懐かしく思い出される。山吹の花はさっぱりと美しく、藤の花はぼんやりと味わい深い様子など、どれもこれも見逃せないものばかりだ。
 「灌仏会の頃、葵祭りの頃、若葉の梢が清々しく茂ってゆく頃というのが、世の風情、人の魅力も溢れている」と、ある方がおっしゃったことが、まさにその通りというものだろうな。
 皐月の菖蒲ふく頃、早苗とる頃、くいなが鳴くのなんか、物寂しくないだろうか。
 水無月の頃は、あばら家に夕顔が白く咲いて、蚊遣の火が煙っているのもいいもので、六月祓もやはりいい。
 七夕祭りは優雅だし、しだいに夜が寒くなってくると、雁が鳴き出す頃、萩の下葉が色づくと、早稲の田んぼを刈り干すなど、取り上げていくと秋は特に多くなる。それと野分の吹いた翌朝とかも本当にいい感じの風情がある。
 書き出していけば、どれも源氏物語、枕草子なんかに言い尽くされてることだけど、同じことはもう一度重ねて言わないでおこう、というわけじゃないし。思ったことを言わないと、腹の中がフラストレーションでパンパンになるし、筆の勢いにまかせた、面白くもない戯言だし、すぐ破り捨てるようなものだから、誰かに読んでもらわなくてもいいんだよ!
 それはそうとして、冬枯れの情景には秋に決して劣らないものがあるだろう。汀の草に紅葉が落ちて引っかかっていて、霜が白々と降りる朝、遣水からぼんやりと蒸気が立ち上るのは素敵だ。年の暮れもせまって、誰もが皆忙しくしている頃ってのは、このうえなく感慨が深い。荒涼としてて見る人もいない月の寒々しく澄んだ二十日ぐらいの空は、本当にやるせないものがある。
 御仏名・荷前の使いが立つのなんかさ、感動的で、おごそかなもんだ。行事が多くて春の準備に重なりつつも開催されていくのは、すごいよ。追儺から四方拝に続いてくのも、いいもんだよなあ。晦日の夜、真っ暗な中松明を灯している真夜中過ぎに、人々の家の門を叩いては走り回っていって、何があったのか、大袈裟にわめきたてる地に足もつかない乱痴気騒ぎが、明け方くらいにはさすがに静まっていく、過ぎ去った年月の名残は物寂しい。亡くなった人が戻ってくる夜として鎮魂する風習は、最近の都にはないけど、関東の方じゃまだやってることもあるっていうの、いいもんじゃないか。
 そうして明けていく空の景色は、昨日と変わったようには見えないけど、何もかもがすっかり変わってしまった新鮮な気分になる。都大路の様子は、門松が立ち並んでいて華やいで喜ばしくって、それはまた心が弾んでくる。
第二十段
 ナントカとかいった世捨て人が「この世に繋がれるものを持たない我が身に、ひたすら空の名残だけは愛しい」と言ったのは、その通りのことと感じるよ。
第二十一段
 多くのことは月を眺めることで心休まるものだが、ある人が「月ほど趣あるものは      ない」と言い、またある人が「露の方がより趣深い」と言い争うのは面白い。
 シチュエーションしだいで、何であれ情趣がでないなんてことがあるだろうか。
 月・花は言うまでもない、風には特に、人は心を動かされるだろう。岩に砕けてさらさら流れる水のさまも、何時であれよいものだ。「沅・湘・日夜、東に流れ去る。愁える者のために留まることは少しもなかった」という詩を読んだ時は、心に響いたよ。嵆康も、「山川に遊んで、魚鳥を見れば、心も解放される」と言った。人から離れ、水や草がきれいなところを散策するのほど、心が癒されることはない。
第二十二段
 何事も、昔の世にだけ惹き付けられる。今のものは、やたらと下品になっていくようだ。かの指物師の造った、美しい器物も
、古風な様式のものこそ素敵と思う。
 文章でも、昔の書き損じなんかは素晴らしい。これと言うことなく言う言葉も、だんだん残念なものになっていくようだ。以前なら「車もたげよ」「火かかげよ」と言ったところを、今の人は「もてあげよ」「かきあげよ」などと言う。「主殿寮人数立て」と言うべきところを、「たちあかししろくせよ」と言い、最勝講の御聴聞所というものは「御講の廬」とこそ言うのを、「講廬」と言う。失望させられると、古風な人は仰せられた。
第二十三段
 権勢の衰えた世とはいえ、やはり皇居の厳かに神々しいありさまは、世俗の風に染まらぬ立派なものだ。
 露台・朝餉・何殿・何門などは、当然素晴らしく思われる。低い身分の者の所にもありそうな小蔀・小板敷・高遣戸なども、立派なものに感じる。「陣に夜の準備を」と言うのはカッコいい。夜の御殿では「速やかに燈火を灯せ」なんて言うのも、またいいよ。上卿が、陣で行事を執り行うさまは勿論、諸々の司の下役人の、したり顔に親しむのも、面白い。すごく寒いなか一晩中、この場所で眠り込むのも面白い。「内侍所の御鈴の音は、美しく、優雅なものだ」とな、徳大寺太政大臣はおっしゃった。
第二十四段
 斎宮が、野宮にいらっしゃるありさまは、品があって、実に雅趣に富むものだと思われる。「経」「仏」などは忌み、「なかご」「染紙」などと言うのも素敵だ。
 全く、神社というのは、嫌われない自然体で美しいものではないか。悠久の森の景色も普通ではない、玉垣で延々と囲み、榊に木綿をかけているのなどは、素晴らしいものではないか。特にいいのは、伊勢・賀茂・春日・平野・住吉・三輪・貴布禰・吉田・大原野・松尾・梅宮。
第二十五段
 飛鳥川の淵瀬のように、永遠はない世の中であるならば、時間がたって、あった事は消えていって、楽しさも悲しみも訪れては去る、華やかだったところも人の住まぬ野原になり、変わらずにある家も住人は違っている。「桃李は何も言わない」なら、誰と一緒に昔を語ればいいのか、とりわけ、ずっと昔に華美を極めていただろう廃墟は、あんまりにもはかない。
 京極殿・法成寺などを目の当たりにして、思いが残っているのに実体は変わっているさまは、本当に寂しいものだと感じる。御堂殿を作って美しく手入れさせて、庄園を多く寄進し、我が一族(藤原家)だけは帝の後見、世の権力者として、いつまでもと思い定めた時には、どんな時代にこれほどまでに荒れ果ててしまうと思われただろうか。大門・金堂など最近まであったけれど、正和の頃(鎌倉時代後期・花園天皇朝・1312~1317)南門は焼けてしまった。金堂はその後倒壊したまま再建される様子はない。無量寿院だけが、その形を残している。丈六の仏九体が、非常に尊く並んでおられる。行成大納言の額、源兼行の書の扉は、今も綺麗なのが痛ましい。法華堂なども、現存している。これも結局、いつまでもつものなのだろうか。これほどの名残さえない場所は、たまたま礎石だけ残ることもあるけれど、はっきり覚えている人もいない。そういうことであるから、何事も自分が死んだ後のことまで考えておくなんていうのは、はかないことであろう。
第二十六段
 風も吹かないのに揺れ動く人の心のときめきに、馴染み覚えた日々を懐かしめば、心動いた言葉の全てを忘れられない。だから、それらが自分の人生とは関係がなくなっていく当たり前のことが、亡くなった人との別れよりもずっと悲しい。
 それだから、白い糸が染まっていくことを悲しみ、道が二つに別れていくことを嘆く人もあったという。堀川院の百首の歌の中に
 『昔見たあなたの垣根荒れ果てて茅花まじりの菫それだけ』
 寂しい光景、そんなことが実際にあったのだろう。
第二十七段
 帝の譲位の儀の節会が行われて、三種の神器が新帝に譲り渡される時は、この上なく物寂しいものだった。
 新上皇になられた花園上皇が退位なされた春にお詠みになさったという
 『殿守の下役人にやる気なく掃かれぬ庭に一面花散る』
 新しい治世の忙しさにかまけて持明院殿には来る人もいないのは、寂しいものだ。こうした時に人の心ばえもわかってしまうものだろう。
第二十八段
 諒闇の喪(天皇の御父母の喪)に服す期間ほど、心がこもったものはない。
 倚廬の御所(喪中の天皇の仮の御所)の様子などは、板敷を下げ、葦の御簾を掛けて、布の帽額は粗末で、御調度品も質素で、人々の装束・太刀・平緒まで、普段とは違い、ただごとではない。
第二十九段
 静かにもの思うなら、何事も過ぎ去ってしまったあの頃の恋しさ、そればかりは、どうしようもない。
 人の寝静まった後、長い夜の退屈しのぎに、たいしたものでもない道具の片付けをして、残しておくまいと思う失敗原稿なんかを破り捨てていくうちに、もう会えない人の書き散らしや、ラクガキなんかを見つけてしまうと、ただもう、当時の気持ちになってしまう。
 まだ生きている人の手紙さえ、時間がたって、「なんの時いつのものだったか」と思うのは、本当にしみじみとするものだよ。使いなれていた道具なんかも、心もなく変わることもなくずっとあるのが、とても悲しい。

2020年3月9日月曜日


『クロイツェル・ソナタ』トルストイ 望月哲男訳
 トルストイという作家は道徳的だと思われている。マハトマ・ガンジーはトルストイが好きすぎて、南アフリカに「トルストイ農場」というものを作ったりしている。このことはガンジーの自伝に書いてある。農場で働くと精神的にも健康になる、しかも野菜しか食わないでも人間は平気、みたいなことをガンジーは平然と書いている。私はガンジーのそういう悩みがなさすぎる道徳の感覚がよくわからない。なんかこわい。ガンジーみたいな道徳はぐいぐいしすぎてて肌にあわない。ガンジーは偉人だが、私とは関係がないと思う。
 トルストイも非暴力主義を掲げるし野菜しか食わないとかいうし道徳的ではあるが、しかしガンジーとはだいぶ違うものがあると感じる。有名な『イワンのばか』は、ガンジーの道徳と同じ調子だが、後期の短編『クロイツェル・ソナタ』には、何か違うものがある。この作品は、妻を刺し殺す夫の話だ。
 毎日生活していて、なぜだかわからない理由で苛立つことがある。ごくごく些細なことが、なぜだか気にさわって絶対に許せなく思えるときがある。口の中にものを入れたまま喋っているのだとか、いちいち鼻をずるずるさせているのだとか、距離感がへんに近いだとか、笑うとき物を大袈裟に叩くとか、足音が不必要にでかいとか、軽はずみな言葉の調子とか、「ちょっと気になるな」ぐらいにすませればいいことに、なぜだか本気で腹がたつことがある。しばらく不機嫌になって、しばらく耐える。少し当たり散らすこともある。そのうちに、なぜあんなつまらないことに腹をたてていたのかが全くわからなくなる。自分がしょうもなく思えて死にたくなる。
 『クロイツェル・ソナタ』を読んでいて、私はこういう経験を思いださせられた。だから読んでいて辛かった。
 このお話は、最後には妻を刺し殺す男が自分の結婚生活がどんなものだったのか語るだけの話だ。別に複雑な過去はない。ただ、私たちが普段送っているような生活のうえでの感情の動きを、深く掘り下げていく。
 「こう言ったよね」「そんなこと言ってない」「嘘ついてる」「ついてない」こうした類いのくだらない食い違いがきっかけで大喧嘩になる経緯が何度も繰り返し書かれる。夫婦はお互いがお互いを軽蔑し、お互いに「あいつ
は自分のことしか考えないエゴイストだ」と思い込む。しかし、実際のところその根拠はない。ただ感情の投げ合いと暴発があるだけで、一体それが本当のところ何が原因なのか、わからない。そういう人間の関係に焦点が当てられている。思い当たることばかりなのに、直視すると面倒だから、なかったことにしていたものが、まざまざと書かれている。
 こういうことは結局性格の問題にされがちだ。当事者間でもそうだし、部外者からみたとしても、性格が歪んでいるから関係も歪むと決めつけられる。それで結局、我慢しろだの諦めが肝心だのと誤魔化される。この小説は、そういうおざなりな片付けかたはしていない。特に興味深く感じられたのは、嫉妬というものの捉え方だ。
 この小説の主人公は、妻の不倫をみて、妻を殺す。だから、裁判では「嫉妬のためである」と裁かれる。しかし、彼は「それは違う。私が妻を殺した原因は、嫉妬であって、そうではない」と言う。
 ここに私は興味をもつ。嫉妬がこれほど出てきながら、嫉妬があくまで些末なことと捉えられているのだ。この小説は、議論があちこちに飛ぶので、主人公の主張の一貫が掴みにくい。が、「嫉妬に狂うのが人間の本性だ」というようなことは、決していっていない。
 嫉妬はあくまで結果であり、原因ではないとされている。妻を殺したこの男が、嫉妬に駆られたのは確かだか、嫉妬に駆られたから殺したという説明は、不十分だとはっきり提示されている。
 嫉妬というものの背後にあるものに、作者トルストイは目を凝らしている。そして、夫婦の間に横たわる人間関係の欠落を取り出そうとしている。人間関係の欠落に置かれた人間は、空しさを埋めようとして、そのために嫉妬に駆られる。憎悪を張りつめさせて、狼藉に及び、結果ますます空っぽになる。「妻を殺した原因は、嫉妬であって、そうではない」とは、いかにも欠落を抱えたもの特有のあやふやではないだろうか。
 しかし奇妙なのは、むしろ自分から自分を、より強い嫉妬へと追い詰めていくかのような主人公のふるまいだ。そもそも妻の不倫だって、防ごうと思うなら防げる立場に、彼は立っていた。にもかかわらず、彼はむしろ自分から、自分にとって屈辱的な場面を招き寄せるような真似をするのだ。彼は自分が嫉妬に怒り狂いながら、冷静に自分の行動が他人にどういう印象を与えるのか、しきりに意識している。まるで何かに操られるかのようにパフォーマンスとして自分を動かしながら、それがなぜだか感情の限りのふるまいともなっている。行動と意識の分裂が強烈にある。嫉妬に駆られるということは、そういうことなのだろう。
 嫉妬とは奇妙な感情だ。喜怒哀楽の感情は、対象がしっかりあるならば、心の動きにはまとまりが感じられるものだ。感情がどこでどう動くのか、自分でもある程度わかる、他人のものも想像できる。たが、嫉妬はわかりづらい。なんだか感情がバラバラで、強烈なくせに一貫性がなくって、何がどうして嫉妬しているのかは誰にも説明がつかない。そして嫉妬の特徴は、根拠もない妄想をもとにして無限に膨らむところだ。
 「妄想性の嫉妬の発生には置き換えのメカニズムが関与している。夫の不貞を空想することで、自分が不貞だという良心の呵責から逃れようとした。」根拠のない嫉妬に苦しめられたある既婚女性を分析して、フロイトが『精神分析学入門』にこう書いている。心理学はそんなに好きじゃないけど、この分析は達見だと思った。人間は、感情の捌け口が無い場合は、それを無理矢理自分の外にこしらえ出す、そうして自分の内側の問題を、外側の問題とすり替える。「自分はこれほど清く正しいのに」「なんか人から思いやりを受けてない」「あいつは汚らわしいことをしているに違いない」「決して許すまじ」「監視するしかない」嫉妬においてはこうした妄想の連鎖が起きる。しかしこれは、当人の周りに実際の原因があるためではない。最初に自分を「清く正しい」と思いたがったことに、そもそもの原因がある。フロイトが言っているのはそういうことだと思う。
 嫉妬のややこしさは、こうした人間の内側と外側にまたがった関係性の中にその根を持つためなのだろう。嫉妬する人間は、自分を不幸に追い込む何かを憎んでいるようで、自分の感情そのものを憎んでいる。自分の感情が自分の善意を裏切っているのに耐えられなくて、この感情は誰かのせいなのだということにする。それは、彼や彼女が、自分は感情的ではない、自分は善人だと思いこみたがったためなのだ。つまり、人は道徳的であろうとして、人を嫉妬することになるのだろう。
 「俺は本当はああいうことしたいが常識的に考えて我慢している、なのにあいつはそれを平然としている、ふざけるな、俺は正しい、あいつは間違っている、なにがなんでもゆるさない!」こんな人は世の中にたくさんいる。今まで不思議に思っていたが、彼らは「嫉妬深い常識人」だったのだなと、気づいた。
 おそらく、禁欲的な人間のほうが嫉妬深くなりやすいのだ。ストイックな人間は、なんだか他人にも自分と同じストイックさを求めがちだし、自分の感情を自分の外の誰かに被せ、それを嫉妬することで自分の感情を抑える。「置き換えのメカニズム」がそこにはあるのだ。この仕組みのこわいところは、ブレーキがないところだ。他人を巻き込んでおいて、実は自己完結しているものだから、どこまでも極端な話になる。
 『クロイツェル・ソナタ』は、極端な議論ばかりしている小説で、たくさん反感を招くことも書いてある。結婚した女は長期の売春婦だとか、子どもは苦しみであってそれに尽きるとか、医者は病気をだしに人を恐喝する詐欺師だとか、そうやってあちこちに極端な言葉を吐き散らすものだから、ついつい「そんなことないぞ」と、言い返したくなる。しかし、この小説の力は、語られる意見よりも、語ろうとする精神にある。
 この小説に宿った精神の振れ幅の大きさを無視して、表面に出た意見をチマチマと後から追って捕まえたところで、何にもならない。結論だけをとってああだこうだ断じることは、トルストイの悩んだ場所からは遠ざかるだけだ。私にとっては、道徳的とは、人間を意見で決めることでなく、精神の幅でみることだ。
 私たちは自分たちで思っているほど善人でも悪人でもない。私たちは勝手に人を善人だとか悪人だとか決めたがるが、それは私たちが知らず知らず嫉妬ばかりしているゆえだ。些細なことに不意に激しい苛立ちを感じたりするのも、手っ取り早く人間になろうとするからだ。感情的だからいけないとは思わない。感情的であることを踏まえず、理性的に見せ掛けた感情的なふるまいをとるうちは、とうてい善悪などという世界が垣間見えてきはしないだろうと思うだけだ。
 「どうせ金めあてに違いない」「どうせ目立ちたいだけ」「男は性欲の塊」「女も虚飾の塊」こんな邪推は、いかにも事実めかして語られる。が、みなただの嫉妬だ。
 嫉妬から出る言葉は激しいが、嫉妬は受身の感情だ。あらゆる対象を自分のところまで引きずり下ろしたいあまりの空しい妄想の悪あがきにすぎない。しかし嫉妬は、道徳と裏表にある。ここがなにより、おそろしい、やりきれないところだ。トルストイはこの矛盾に、全身でぶつかったのだろう。『クロイツェル・ソナタ』は、その精神の姿だ。

2020年2月25日火曜日


『忍法八犬伝』山田風太郎
 山田風太郎の小説は感動する。感動するのだが、何に感動するのかはよくわからない。書かれていることは、荒唐無稽そのものといえる。出てくる忍法がいちいち性的だし、説明はまことしやかなだけで説明になってないし、登場人物は次々に無惨に死んでいく。こんなハチャメチャな書き方をして、何故破綻しないどころか最後には感動してしまうのか、謎だ。
 山田風太郎の小説は、嘘の塊みたいなものだ。だから山田風太郎の小説はくだらないといわれるかもしれない。この『忍法八犬伝』の主人公の八犬士たち(末裔)は、みな人格に問題がある。「忍法摩羅蝋燭」とか出てくる。しかし私は感動してしまう。ということは、私は、嘘を嘘とはっきりわかっていても、感動してしまうということだ。
 本当のことを言っている、真実のことを伝えている、ありのままのことを叫んでいる、みたいなのが、私はどうも苦手だ。付き合わされるとひどく疲れる。そういうポリシーをもつものには、なんだか圧迫感を受けてしまう。身が縮む思いがする。責められている気になる。
 これは昔からそうだった。だから私はいつも嘘臭いものばかりを好んだ。出来る限りそういう本当のことを言いたがるものから遠ざかりたかった。
 その昔私は「非日常」という言葉が好きだった。だから昔なら山田風太郎の小説の魅力を「非日常」といっていただろう。なんだかそういっておけば、だいたいの変なもの、不思議なもの、嘘臭いものを価値あるものとして認めてやれるみたいな気がしていた。しかし、今はそうはしたくない。「非日常」という考えかたはどこか傲慢なものだと今は思う。
 
 あるとき「日常を取り戻す」という言葉がむやみに使われているのを聞いて、穢らわしいと思った。瓦礫の山を目の前にして、そんなことをほざくことがいかに失われたものへの侮辱になるのかということが、あるとき不意にわかってしまった。失ったものを取り戻せるわけなんかないのに、「日常を取り戻す」ことなんかできるわけないのに、それが可能であるかのようにするのは、あまりに酷いことだと感じた。
 「日常」という考えのもつ、事なかれ主義、何でも見ておいて結局見ないふりをする態度、それが耐えがたく卑怯なものに思われて、私はすっかりいやになった。そして同時に、いままで私の伝家の宝刀であった「非日常」という言葉も、使いたくなくなった。
 「非日常」は、結局は「日常」に戻ることを前提にしている。「日常」にとって目新しいものを、ちょっとしたアクシデントとして求めて、「非日常」と呼んで弄ぶものでしかないように思えた。「日常」に逆らっているように見せておいて、実際のところ、「日常+アルファ」の賑やかしとしての位置しか「非日常」はもっていない。ただの誤魔化しでしかないと思う。
 「非日常」が「日常」を活性化させるなどというのは、たわごとだ。それは「日常」の側からの勝手な決めつけだ。「非日常」に生き続けることが「日常」になっている人にとって、こんな線引きの仕方は不条理だ。
 おそらく、私たちは自分にとっての「日常」を生きるしかなく、「非日常」などというものはそこから逃げたいから生まれる詐術なのだ。世界には、自分の「日常」と他人の「日常」があるだけで、「非日常」などというものは頭の中にあるだけだ。そんなものはただ自分と他人の線引きを誤魔化す、上っ面だけものだ。
 誰かの陥ったかなしい「日常」は、「非日常」ではない。外から「日常」だの「非日常」だのを勝手に判定するのは、人間のやることではない。かなしい「日常」に苦しんだ人が、ごく一般的「日常」を取り戻したところで、失われたものは戻ってきはしない。失われたものは、ずっと失われたままだ。
 失われたものを真剣に捉えようとするなら、人は嘘をつくしかないのだと思う。そこには今はもうないものと関わり続けるためには、本当のことは何の助けにもならない。失われたものを利用して、自分の気持ちも騙して、あの時の真実などと言い出せば、それは今あるものに「感動的実話」として消費されるだけだ。けれど、失われたものに入り込みすぎれば、生きていけなくなる。言葉を失うしかなくなる。
 失ったことのない人間だけが、正直者になるのだ。失われたものを抱えて、それでも生きていくしかないから、人は嘘もつかねばやっていけないのだ。そういう実感なしに、嘘をつくのはただのくだらないことだが、山田風太郎の小説は違う。
 山田風太郎の作品は、嘘に満ちているが、人を騙すようなところがない。嘘が嘘として全力を尽くしているから、綺麗な文章になる。精液が口から溢れ出て死ぬシーンとかあるけど、本当と嘘の線引きがしっかりしているから、清々しい。よりよい「日常」のために、などというさもしい下心がない。
 山田風太郎には『戦中派不戦日記』『人間臨終図巻』といった作品もある。これらと、一連の忍法帳小説に共通するものが私はいまいち掴めずにいた。しかし、それは失われたものを捉える試みだったように思われる。山田風太郎は、戦争と死を、徹底的に捉え続けた作家だったのかもしれない。だからこそ、忍法という大嘘をついた。嘘ということをどこか中途半端にしか考えてなかったから、ずっと気づけなかったが、山田風太郎は、失われたものを「非日常」だなどと誤魔化さず、失われたもののままに感じつづけた人だったように思う。たぶん、そこに私は、心うたれるのだろう。
 山田風太郎の作品は、どれもふざけたような真剣なような、笑えばいいのか泣けばいいのかわからないものばかりだ。でも、失われるということは、そういうことなのだ。生きていくことは失い続けることなのだから、一度失ったものは二度と戻ってきやしないのだ。山田風太郎は立派な人だ。失われたものから決して逃げなかった。その姿に、私は感動させられたのだろう。


『坊っちゃん』夏目漱石
 それほどにしっかり読んだ作品ではない。夏目漱石の作品の中では有名なのだけど、私にとっては文章の喉ごしが良すぎた。「あー面白かった」という印象だけが残っていて、一体なんだったのか改めて考えると、何も自分の中に引っ掛かっているテーマ的なものがなくて、びっくりした。テーマなんて作者にとってはどうでもよくって、読者が勝手に作るものなんだろうなと、夏目漱石の作品を読むとよく思うけど、『坊っちゃん』は、特にそういうものだった。
 私には、この小説は全体として語れることがあまりない。勢いのいい悪口の嵐だったなと、ただそれだけだ。悪口がこんなに詰まっていてそのくせ楽しいという言葉の操りかたに意識が向いて、実際何が書いてあったのか、よく覚えていない。しかし、ある一場面だけ、折々に何度も思い出してしまうものがある。
 それは「ターナー島」の場面だ。気取った教頭「赤シャツ」と、その太鼓持ち「野だ」と一緒に、アナーキーな主人公「坊っちゃん」が釣りにいく場面だ。「赤シャツ」は自分を教養があって、芸術的なことにセンシティブであることをことあるごとにアピールしたくてたまらない男で、釣りの最中に見かけた松の生えた小島を「ターナー島」と名付ける。「ターナー」というのは、松を描くことで有名なイギリスの画家で、「赤シャツ」はその言葉を振り回しているたけでなんだか楽しいらしい。自分が芸術的なものに関わっていられるような気がするようだ。岩と松しかないどうってことない小島を「ターナー島」とか勝手に呼び出して、「赤シャツ」は浮かれている。「赤シャツ」の太鼓持ちの「野だ」は、全くその通りですよ全くターナーそのものでございます、と力の限りのヨイショをする。ふたりは芸術的な、高尚なやり取りができて幸せそうだ。「坊っちゃん」はアナーキーなので、その様子をみても、おれには関係ない、と思うだけだった。人には分からんことを言って、それでもってはしゃぐのは全く下品だ、と私もこの場面で思った。
 そして、この「ターナー島」を私が思い出すのは、「現代アート」的なものを見たときだ。
 「ターナー島」の生まれる仕組みは、これといってたいしたものではない。芸術的でありたい人間が、芸術的な観念を振り回して、現実を塗りつぶしているだけだ。どこにでもありふれたものだ。しかし、なかなか根深い。いくら否定されようがピンピンしている不死身なところがある。こういうものは、しっかりしているから、しぶといのではないだろう。実のところ全く根拠がないから、何を言われても揺るがないのだ。「ターナー島」を生み出すような観念は、それ自体の実体があるわけではないために、しぶとい。観念が、それ自体の正体を持っておらず、人と人の関係に食い込んで、寄生して力を発揮しているのだ。
 「現代アート」も、それ自体の価値というものはあってないようなものだ。しかし、価値がある。なぜか。それは芸術的になりたい人がいっぱいいるからだ。芸術的な観念に関わっていれば、芸術的になれるというのは、すごく楽しいことだ。だから、「現代アート」を作る人も、「現代アート」を支える人もいる。そして、実のところ「対象となるその物」はなんだっていい。「ターナー島」は、島自体は全くどうってことないものだった。しかし、「赤シャツ」にとってそれは何の問題でもなかった。大事なのは、芸術的な観念で、それを人間同士仲間内で回してお互いにやり取りさえできれば、芸術的となる。そして、そのような芸術的は、むしろ、美しい実体を持つものよりも、あからさまに美しく価値あるものとなるのである。
 こんなことは『坊っちゃん』という小説には、書いていない。それは当然の話で、夏目漱石の生きた時代には「現代アート」はなかった。しかし、人間はいつの時代も、それぞれの手口で自分と他人を騙しているのは変わらない。この小説は、そういう人間が人間と結託して作る欺瞞のからくりを、目につく限り蹴散らす。それだけの小説だ。誰にでもわかる、すごくシンプルで痛快なだけの小説だ。だから、「現代アート」が古くなっても、この小説は古くならないだろう。


『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない A Lollypop  or A Bullet』桜庭一樹
 女の子がなんの救いもなくバラバラにされて死ぬ話なのに、この小説にはとんでもなく前向きな力がみなぎっている。「いったいどういうことなのだ?」と、じっくり感じるようになったのは、この小説を読んだ3回目になってやっとのことであった。最初読んだ時は「何だか雰囲気があっていい」ぐらいしか思っていなかった気がする。キャラクターの魅力とか、すっきり読みやすい文章とか、そんなところに目がいっていた。何か得体の知れないパワーがあるのには気づいていたけど、それは「作者の気合い」なのかな、ぐらいにしか思っていなかった。この印象が気にはなっていたから、再読もしてみた。その時は、スティーヴン・キングの『キャリー』に似ているかもしれないとか、なんとなく思った。『キャリー』も、ヘンテコな女の子が出てきて狂った親も出てきて色々あって女の子が死ぬ話だ。この作者桜庭一樹は、お馴染みの話の型を自分流に語り直すのが得意なのかなとか、ぼんやり考えてみたりしたけど、結局この小説に宿っている不思議な引力の正体を自分に納得いくよう捉えることはできなかった。「作者の気合い」よりマシな訳を見つけられなかった。
 3回目になって、やっと、この小説の力が、自分に深く響いてくるようになった気がする。適当な、とってつけた、誰かの引用による説明で誤魔化さずに、「いったいどういうことなのだ?」と、自分の頭でじっくり考えるだけのとっかかりを掴んだように思えた。
 たぶん、この小説を、「女の子の世界」の話だと思っていたのが間違いだったのだ。私は今まで「藻屑」と「なぎさ」の二人の少女が、この小説の主役だと思っていた。なぎさの兄の「友彦」は、絶望的な雰囲気を出すための、ただの脇役だとばかり思っていたが、この引きこもりの兄も、重要なキャラクターだと、読みかえし改めて気づいた。そうして話の全体を捉えなおしてみると、なんの救いもなく死んだはずの「藻屑」が、全ての絶望を背負って死んでいったかのように見えてくる。「女の子の世界」という特殊な一民族の世界を書いたものではなく、もっと広い何かを目指して書いているように感じられた。
 なんというべきか、私には、「藻屑」の死と、「友彦」の社会復帰が、ものすごく直接に関係があることのようにみえた。「藻屑」と「友彦」は、物語の中ではずっと間接的な関係しかなかった。なのに、この二人にはものすごく深い関係があったようにみえたのだ。「友彦」は、世界と関わらないで世界を見通そうとしている少年である。そういう「読者」の目を持った引きこもりである。そして彼は、物語の世界の登場人物である。だから「友彦」は、「お話の中に入り込んだ読者」ともいえる。そう考えてみて「藻屑」の死をみれば、この小説は、かわいそうな女の子が死ぬだけのストレートな話に見せて、実は入り組んだ構造が意識された、つまり「お話の中で人が死ぬということが、私たち(読者)にとってどういうことなのか」と、それを問う、小説といえるのではないだろうか。
 現実において人が死ぬことは、全くやるかたないばかりだというのに、人は物語の中では人を何度も死なせる。最初から死体が転がっている話も多いし、途中で死ぬものも多いし、最後に死ぬのも多い。よくよく考えると、なぜこうも人は人をこうも死なせ、それで感動したりするのだろうか不思議になってくる。
 悪いやつが死ぬとすっきりするというのは分かりやすい。ざまぁみろというのはいつだって気持ちいい。でも悪くない人、むしろ魅力的な人が死ぬほうが、物語の中では、王道のように思える。この小説で死ぬ「藻屑」も、かわった性格をした、かわいそうな、かなしい少女であって、もしこの小説に書かれたようなことが、実際にあったとしたら、それはただただ陰惨で、救われない気分になるだけだろう。でも、この小説の一言一言は、不思議なことに、生き生きとした力を、読者めがけて強烈に発散している。それは、「友彦」という登場人物を使って、「読者」に問いかける構造を持たせたためだと思う。何もかもを「見る」対象にして自分を世界に無関係にするやりかたを「藻屑」の死は突いている気がした。そして、この小説は「なぎさ」が死んでしまった「藻屑」のことを思い出しているという話の進め方をしているものである。「女の子が死ぬ話」でなく、「女の子が死んだのを女の子が思い出している話」であるゆえ、全体に悲惨な出来事が満ちていても、狭い印象の押しつけになっていない。「読者」同士の馴れ合いになずんでいない。語る内容でなく、語る位置の設定が、この小説をただの少女小説ではなく、もっと大きな小説にしている。
 この小説には、普通なら目を背けたくなるようなことがたくさん書いてある。田舎の現実とか、嫌な空気の学校とか、暴力とか。でもその描写のしかたに、厳粛さがある。冷淡に突き放しているというわけではない。誠実であろうとする構えがある。これは悲惨そのものをつつきまわし、泣きわめいたり、糾弾したり、訳知り顔で語ったりする態度とは違う。
 「藻屑」の死体がみつかるシーンは、映像化したりしたら、どうやっても悪趣味になるシーンだ。でも、このシーンはこの小説の中で、一番のシーンだと感じた。映像化すれば悲惨そのもののシーンを、言葉の力で浄化してしまっている。だからこのシーンは、清らかでさえある。本当にすごいシーンである。これほどの悲惨にこれほどの清らかさを与えた作品は他には、水俣病の患者を描いた石牟礼道子の『苦海浄土』ぐらいしか私は思いつかない。
 映像はただ、指示するものであるから、そのもの以上のものを出すことは難しい。たからどうしても奥行きや広がりが出てきにくい。想像の余地が残らない。だが、言葉は喚起するものだから、読んだ人の頭に取りついて、書いてあること以上のことを感じさせることがある。「藻屑」の死体がみつかるシーンは、まさしくそのような、書いてあること以上のものがそこにまざまざとあらわれるシーンだった。
 そしてこのシーンで、私は、自分の中の何かが死んだように思った。そしてそれは辛く苦しいことではなく、なぜだか励まされることであった。読み返すたび、そのような実感が強くなっていった。
 だから私には、この小説が、ただの他人事を書いた嘘というようなものとは、どう考えても思えない。「藻屑」が死体になったとき、私の中の何かも死体になったのだ。書かれたことと私の中の何かが連動を起こしたのだ。そして、目の前が大きく開けたような気がした。
 こうした実感こそが「お話の中で人が死ぬ」ことでしか感じられないものだと思う。人はなぜ物語の中で人を死なせるのかというと、それは突き詰めれば、この実感のためなのではないだろうか。突き詰めなければ、「お話の中で人が死ぬ」ことは、ただの猟奇なものでしかない。怖いもの見たさ、好奇心、暇潰しの玩具でしかない。人の不幸や悲惨をほじくりまわして上から哀れむ見世物でしかない。それは浅ましいことだ。でもそうならないようにすることもできると思う。私はそれを信じたい。人が物語に死を埋め込むのは、人間が人間を他人事にしない感性をめざめさせるためのものなのだと、人間と人間がばらばらにならないようにする祈りなのだと、そう思う。これは答えではない、むしろ問いでしかない。しかし、私たちみんなのための問いだ。それが、この小説にはある。