2020年2月25日火曜日


『坊っちゃん』夏目漱石
 それほどにしっかり読んだ作品ではない。夏目漱石の作品の中では有名なのだけど、私にとっては文章の喉ごしが良すぎた。「あー面白かった」という印象だけが残っていて、一体なんだったのか改めて考えると、何も自分の中に引っ掛かっているテーマ的なものがなくて、びっくりした。テーマなんて作者にとってはどうでもよくって、読者が勝手に作るものなんだろうなと、夏目漱石の作品を読むとよく思うけど、『坊っちゃん』は、特にそういうものだった。
 私には、この小説は全体として語れることがあまりない。勢いのいい悪口の嵐だったなと、ただそれだけだ。悪口がこんなに詰まっていてそのくせ楽しいという言葉の操りかたに意識が向いて、実際何が書いてあったのか、よく覚えていない。しかし、ある一場面だけ、折々に何度も思い出してしまうものがある。
 それは「ターナー島」の場面だ。気取った教頭「赤シャツ」と、その太鼓持ち「野だ」と一緒に、アナーキーな主人公「坊っちゃん」が釣りにいく場面だ。「赤シャツ」は自分を教養があって、芸術的なことにセンシティブであることをことあるごとにアピールしたくてたまらない男で、釣りの最中に見かけた松の生えた小島を「ターナー島」と名付ける。「ターナー」というのは、松を描くことで有名なイギリスの画家で、「赤シャツ」はその言葉を振り回しているたけでなんだか楽しいらしい。自分が芸術的なものに関わっていられるような気がするようだ。岩と松しかないどうってことない小島を「ターナー島」とか勝手に呼び出して、「赤シャツ」は浮かれている。「赤シャツ」の太鼓持ちの「野だ」は、全くその通りですよ全くターナーそのものでございます、と力の限りのヨイショをする。ふたりは芸術的な、高尚なやり取りができて幸せそうだ。「坊っちゃん」はアナーキーなので、その様子をみても、おれには関係ない、と思うだけだった。人には分からんことを言って、それでもってはしゃぐのは全く下品だ、と私もこの場面で思った。
 そして、この「ターナー島」を私が思い出すのは、「現代アート」的なものを見たときだ。
 「ターナー島」の生まれる仕組みは、これといってたいしたものではない。芸術的でありたい人間が、芸術的な観念を振り回して、現実を塗りつぶしているだけだ。どこにでもありふれたものだ。しかし、なかなか根深い。いくら否定されようがピンピンしている不死身なところがある。こういうものは、しっかりしているから、しぶといのではないだろう。実のところ全く根拠がないから、何を言われても揺るがないのだ。「ターナー島」を生み出すような観念は、それ自体の実体があるわけではないために、しぶとい。観念が、それ自体の正体を持っておらず、人と人の関係に食い込んで、寄生して力を発揮しているのだ。
 「現代アート」も、それ自体の価値というものはあってないようなものだ。しかし、価値がある。なぜか。それは芸術的になりたい人がいっぱいいるからだ。芸術的な観念に関わっていれば、芸術的になれるというのは、すごく楽しいことだ。だから、「現代アート」を作る人も、「現代アート」を支える人もいる。そして、実のところ「対象となるその物」はなんだっていい。「ターナー島」は、島自体は全くどうってことないものだった。しかし、「赤シャツ」にとってそれは何の問題でもなかった。大事なのは、芸術的な観念で、それを人間同士仲間内で回してお互いにやり取りさえできれば、芸術的となる。そして、そのような芸術的は、むしろ、美しい実体を持つものよりも、あからさまに美しく価値あるものとなるのである。
 こんなことは『坊っちゃん』という小説には、書いていない。それは当然の話で、夏目漱石の生きた時代には「現代アート」はなかった。しかし、人間はいつの時代も、それぞれの手口で自分と他人を騙しているのは変わらない。この小説は、そういう人間が人間と結託して作る欺瞞のからくりを、目につく限り蹴散らす。それだけの小説だ。誰にでもわかる、すごくシンプルで痛快なだけの小説だ。だから、「現代アート」が古くなっても、この小説は古くならないだろう。

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