2020年2月25日火曜日


『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない A Lollypop  or A Bullet』桜庭一樹
 女の子がなんの救いもなくバラバラにされて死ぬ話なのに、この小説にはとんでもなく前向きな力がみなぎっている。「いったいどういうことなのだ?」と、じっくり感じるようになったのは、この小説を読んだ3回目になってやっとのことであった。最初読んだ時は「何だか雰囲気があっていい」ぐらいしか思っていなかった気がする。キャラクターの魅力とか、すっきり読みやすい文章とか、そんなところに目がいっていた。何か得体の知れないパワーがあるのには気づいていたけど、それは「作者の気合い」なのかな、ぐらいにしか思っていなかった。この印象が気にはなっていたから、再読もしてみた。その時は、スティーヴン・キングの『キャリー』に似ているかもしれないとか、なんとなく思った。『キャリー』も、ヘンテコな女の子が出てきて狂った親も出てきて色々あって女の子が死ぬ話だ。この作者桜庭一樹は、お馴染みの話の型を自分流に語り直すのが得意なのかなとか、ぼんやり考えてみたりしたけど、結局この小説に宿っている不思議な引力の正体を自分に納得いくよう捉えることはできなかった。「作者の気合い」よりマシな訳を見つけられなかった。
 3回目になって、やっと、この小説の力が、自分に深く響いてくるようになった気がする。適当な、とってつけた、誰かの引用による説明で誤魔化さずに、「いったいどういうことなのだ?」と、自分の頭でじっくり考えるだけのとっかかりを掴んだように思えた。
 たぶん、この小説を、「女の子の世界」の話だと思っていたのが間違いだったのだ。私は今まで「藻屑」と「なぎさ」の二人の少女が、この小説の主役だと思っていた。なぎさの兄の「友彦」は、絶望的な雰囲気を出すための、ただの脇役だとばかり思っていたが、この引きこもりの兄も、重要なキャラクターだと、読みかえし改めて気づいた。そうして話の全体を捉えなおしてみると、なんの救いもなく死んだはずの「藻屑」が、全ての絶望を背負って死んでいったかのように見えてくる。「女の子の世界」という特殊な一民族の世界を書いたものではなく、もっと広い何かを目指して書いているように感じられた。
 なんというべきか、私には、「藻屑」の死と、「友彦」の社会復帰が、ものすごく直接に関係があることのようにみえた。「藻屑」と「友彦」は、物語の中ではずっと間接的な関係しかなかった。なのに、この二人にはものすごく深い関係があったようにみえたのだ。「友彦」は、世界と関わらないで世界を見通そうとしている少年である。そういう「読者」の目を持った引きこもりである。そして彼は、物語の世界の登場人物である。だから「友彦」は、「お話の中に入り込んだ読者」ともいえる。そう考えてみて「藻屑」の死をみれば、この小説は、かわいそうな女の子が死ぬだけのストレートな話に見せて、実は入り組んだ構造が意識された、つまり「お話の中で人が死ぬということが、私たち(読者)にとってどういうことなのか」と、それを問う、小説といえるのではないだろうか。
 現実において人が死ぬことは、全くやるかたないばかりだというのに、人は物語の中では人を何度も死なせる。最初から死体が転がっている話も多いし、途中で死ぬものも多いし、最後に死ぬのも多い。よくよく考えると、なぜこうも人は人をこうも死なせ、それで感動したりするのだろうか不思議になってくる。
 悪いやつが死ぬとすっきりするというのは分かりやすい。ざまぁみろというのはいつだって気持ちいい。でも悪くない人、むしろ魅力的な人が死ぬほうが、物語の中では、王道のように思える。この小説で死ぬ「藻屑」も、かわった性格をした、かわいそうな、かなしい少女であって、もしこの小説に書かれたようなことが、実際にあったとしたら、それはただただ陰惨で、救われない気分になるだけだろう。でも、この小説の一言一言は、不思議なことに、生き生きとした力を、読者めがけて強烈に発散している。それは、「友彦」という登場人物を使って、「読者」に問いかける構造を持たせたためだと思う。何もかもを「見る」対象にして自分を世界に無関係にするやりかたを「藻屑」の死は突いている気がした。そして、この小説は「なぎさ」が死んでしまった「藻屑」のことを思い出しているという話の進め方をしているものである。「女の子が死ぬ話」でなく、「女の子が死んだのを女の子が思い出している話」であるゆえ、全体に悲惨な出来事が満ちていても、狭い印象の押しつけになっていない。「読者」同士の馴れ合いになずんでいない。語る内容でなく、語る位置の設定が、この小説をただの少女小説ではなく、もっと大きな小説にしている。
 この小説には、普通なら目を背けたくなるようなことがたくさん書いてある。田舎の現実とか、嫌な空気の学校とか、暴力とか。でもその描写のしかたに、厳粛さがある。冷淡に突き放しているというわけではない。誠実であろうとする構えがある。これは悲惨そのものをつつきまわし、泣きわめいたり、糾弾したり、訳知り顔で語ったりする態度とは違う。
 「藻屑」の死体がみつかるシーンは、映像化したりしたら、どうやっても悪趣味になるシーンだ。でも、このシーンはこの小説の中で、一番のシーンだと感じた。映像化すれば悲惨そのもののシーンを、言葉の力で浄化してしまっている。だからこのシーンは、清らかでさえある。本当にすごいシーンである。これほどの悲惨にこれほどの清らかさを与えた作品は他には、水俣病の患者を描いた石牟礼道子の『苦海浄土』ぐらいしか私は思いつかない。
 映像はただ、指示するものであるから、そのもの以上のものを出すことは難しい。たからどうしても奥行きや広がりが出てきにくい。想像の余地が残らない。だが、言葉は喚起するものだから、読んだ人の頭に取りついて、書いてあること以上のことを感じさせることがある。「藻屑」の死体がみつかるシーンは、まさしくそのような、書いてあること以上のものがそこにまざまざとあらわれるシーンだった。
 そしてこのシーンで、私は、自分の中の何かが死んだように思った。そしてそれは辛く苦しいことではなく、なぜだか励まされることであった。読み返すたび、そのような実感が強くなっていった。
 だから私には、この小説が、ただの他人事を書いた嘘というようなものとは、どう考えても思えない。「藻屑」が死体になったとき、私の中の何かも死体になったのだ。書かれたことと私の中の何かが連動を起こしたのだ。そして、目の前が大きく開けたような気がした。
 こうした実感こそが「お話の中で人が死ぬ」ことでしか感じられないものだと思う。人はなぜ物語の中で人を死なせるのかというと、それは突き詰めれば、この実感のためなのではないだろうか。突き詰めなければ、「お話の中で人が死ぬ」ことは、ただの猟奇なものでしかない。怖いもの見たさ、好奇心、暇潰しの玩具でしかない。人の不幸や悲惨をほじくりまわして上から哀れむ見世物でしかない。それは浅ましいことだ。でもそうならないようにすることもできると思う。私はそれを信じたい。人が物語に死を埋め込むのは、人間が人間を他人事にしない感性をめざめさせるためのものなのだと、人間と人間がばらばらにならないようにする祈りなのだと、そう思う。これは答えではない、むしろ問いでしかない。しかし、私たちみんなのための問いだ。それが、この小説にはある。

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