2020年4月13日月曜日


徒然草について
 徒然草は古典の代表格のような扱われ方をされているが、実際に腰を据えて読んでみると、かなり変な作品だ。よく鴨長明の方丈記と並べられて「無常観の文学」とか言われるけど、徒然草には方丈記ほどの一貫した達観というものはない。
 徒然草はかなりゴチャゴチャしているのだ。特に序盤の記述は内容も書き方もバラバラだし、何か言いたいことがあるのはわかるが、何を言いたいのかがわからない感じがある。その悶々とした感じには実に自分の身にも覚えがあって、親近感を感じるのだが、どう考えても変な文章だとは思う。
 徒然草の中盤から後半にかけてには、このような変な印象はあまりない。時々エキセントリックな話(大根の精霊とか)が出てきたりはするけど、文章を書く兼好法師の悶々とした悩みが取り付いて文章がぐらついているのは序盤だけだ。徒然草は途中から的確になる。
 著者の兼好法師という人は、鎌倉時代後期の人で、その時代に、もう雅やかな宮廷の文化は消滅寸前だった。でも徒然草の序盤には、「をかし」だの「あはれ」だのが頻発する。平安時代の作品の引用やパロディのようなものも、徒然草には多い。語られる無常の思想も、だいたい中国の古い思想を丸々引っ張ってきているだけだったりする。
 もう時代は貴族のものではなく、台頭する武士の勢いに押されて明らかに今までの文化は時代遅れになっていた。そんなときになって、兼好法師は、宮廷の文化を追随して「をかし」だの「あはれ」だのと書き出しているわけなのだ。そこが兼好法師のかなしいところだ。「それどころじゃない!」ってことは、兼好法師も当然気づいていたはずで、その焦燥が、徒然草がゴチャゴチャする理由のひとつであるとも思う。 
 兼好法師はもともとは法師ではなかった。若い頃は蔵人という、天皇の近侍の職員だった。このポジションは平安時代だったら、立派なものだった。なにしろ天皇の諸々の雑事を取りもつ仕事を任せられているわけで、このポジションを若い時に得ていれば貴族としての出世も明るいもの、みたいなものだった。しかし、兼好法師の時代はもう鎌倉時代の末期で、長い長い戦乱の世が始まりかけていて、貴族の社会はもうガタガタだった。そんな中で、卜部兼好という未来を失った青年は鬱屈していた。そして三十ちょっと過ぎたあたりで、卜部兼好は出家した。それが兼好法師となった。
 そういう人間が、達観したいけれど達観しきれない人間になるのは、仕方ないことだと思う。何か言いたいことがあるのはわかるが、何を言いたいのかがわからない感じになるのは、しょうがないと思う。書いたものが、ゴチャゴチャしてしまうのは当然のことのように思われる。
 そもそも、徒然草はいつ書かれた文章なのかも、よくわかっていない。蔵人時代の若いときから書いていた原稿を、法師になってからも思い付いた時にチマチマ書き足していったものという説もあるし、歳をとった兼好法師が、若いときを思い出したりして一気に書いているのかもしれない。原稿をまとめたのも、本人ではなくお付きの弟子だったとかいう話もある。
 そうした事情もあってのことなのか、徒然草には、統一した主張があんまりない。言ってることが前後で矛盾しているところもかなりある。でも兼好法師は、新しい時代に、そして自分の立場に、心を引き裂かれたのだから、ゴチャゴチャになるとわかっていても、書かずにはいられなかったんだろう。
 兼好法師のすごさは、「達観はしたいけれど、達観しきれない」と達観のまわりをぐるぐるしても、ぐるぐるするしかない自分に対して、決してめげないことだと思う。兼好法師は、そうやって段々その自分の中途半端と折り合いをつけていった。自分を的確にしていった。それにすごく励まされる。
 だから、徒然草をありがたい人生の教科書みたいにしてしまうのは何だか違うように思う。そんな変な尊敬をして兼好法師を遠ざけて、歴史上の人間を現代人の役に立つように加工してしまうのは、しょうもない。歴史上の人間も現代人も、そのまま人間なんだから、そういう風に書くしかなかった人間の感情の必然を、そのまま感じればいい。妙ちくりんな後付けの観念を挟む必要はない。徒然草は特にそういうものだと思う。「無常観の文学」とか、理解のためのしょうもない認識の符号は捨ててしまえばいい。それで魅力を失うものでもないから、徒然草は長いこと、読まれてきたのだと思う。

徒然草 序段から第二十九段までの訳
序段
 暇で暇でしょうがないので、一日中硯に向かって、心の中に浮かんでは消えるどうでもいいことを、とりとめもなく書き出していくと、意味不明になってきて、本当に頭がおかしくなってくるんですけど!
第一段
 いやあもう、この世に生まれたからには、是非とも憧れていいってものは、沢山あるんじゃないか?
 帝の御位は、やはり畏れ多い。帝のお子様の、その御子様までが凡人の血筋とは違って、本当に尊い。摂政・関白の振る舞いは言うまでもない、その他の貴族も、舎人などを賜わる身分なら、すごい立派なものに見える。その子ども、孫までは落ちぶれてしまっていても、それでも品がいい。それより下のほうになると、身分相応で、時流に乗って、得意顔してるのは、自分ではいいと思っているみたいだけど、本当にしょうもないぞ。
 法師ほど羨ましくないものはないよ。「人には木屑みたいなもんだと思われてるのよ!」と清少納言が書いてるのも、実際その通りに違いないね。有名になって、世間に騒がれてても、たいしたもんとも思えない、増賀聖の言ってたように、名声は邪魔で、仏の教えとはズレてるように思う。一途な世捨て人なら、なかなかいいところもあるだろうけど。
 人は、容姿や振る舞いが優れているのが、やっぱり理想的だろう、喋っていて、耳障りじゃなく、気配りがあって、言葉数が多くもない人とは、ずっと向き合っていたくなるよね。魅力を感じていた人に幻滅させられる本性を見せられるのは、がっかりだけど。身分や容姿は生まれつきだけど、心は、どうだろうか、より賢明であろうとすれば賢明に、変えようとすれば変わるものだろう。
 人は、顔や性格のいい人でも、知性がなくなれば、格が下がるし、品性の欠けた顔してる連中に混じって、あっさり迎合してるのは、本当に残念なことだ。
 持っていたいものは、本式の学問教養、漢詩、和歌、音楽の嗜み。あとは、伝統的な有職と儀式の知識。人の手本になることは素晴らしいことだろう。字なども下手でなく流暢に書き、声も良く拍子が取れて、迷惑そうにしてはいても下戸ではない、そういうのが、男として良いよなあ。
第二段
 古の聖帝の時代の政治を忘れて、民衆の苦しみ、国家の損害にも気付かず、何でも華やかにしつくせばよいとして、傍若無人に偉そうにする人は、本当に酷く、思いやりに欠けるものに見える。
 「衣冠より馬・車にいたるまで、あるものをそのまま使いなさい、決して美麗を求めてはならない」と、九条殿の遺誡にもあります。順徳院が、禁中のことを書かせなさった本にも、「天皇のお召し物は、粗末であるのをもって良しとする」とあるのです。
第三段
 全てが一流でも、色好みじゃない男は、すごく人として欠けてて、玉の盃に底がないようなものじゃないか?
 露霜に濡れそぼって、行くあてなしにフラフラ歩いて、親の口出し、世間の非難を気にしているから、心に余裕がなくって、ああだこうだで頭の中グチャグチャで、それでもひとり寝ばっかり、まともに眠れる夜はないっていう感じ、面白いよ。
 だけども、ただみだらな振る舞いに走るというのでもなく、女に軽んじて扱われないようなのが、理想的なありかただな。
第四段
 来世のことを心に忘れず、仏の道を気にしないってわけでもないのが、奥ゆかしい。
第五段
 不幸な悩みの中にいる人は、剃髪なんかを安易に選ぶのではなく、いるのだかいないのだかってほどに家の門を閉じて隠って、期待も持たず毎日を暮らしていく、そういう風にしていてほしい。
 顕基中納言が言ったという「流刑の地の月を無実で見たい」というのは、そういう感じだろうなあ。
第六段
 自分が高貴な血筋でも、ましてつまらない身分なら尚更、子どもというものは、無しでいたい。
 前中書王・九条太政大臣・花園左大臣、みな血族が絶えることを望んでいらっしゃった。染殿大臣も、「子孫はいないのが良いものでしょう、末代を残しなさるのはよくないことです」と、『世継ぎの翁の物語』には言われている。聖徳太子がお墓を前もって作らせになった時も、「ここを切れ、そこを断て、子孫は持たないと決めている」とのことだったという。
第七段
 化野の露が消えることもなく、鳥部山の煙も立ちっぱなし、そこに生き続けるのも普通となれば、どうしたって情趣の心もない。
 この世は定まることがない、それこそが大事だ。
 命のあるものを見ると、人間ほど長生きするものはない。かげろうは夕暮れに終わりを迎え、夏の蝉は春も秋も知らないではないか。粛々と一年を暮らせるだけでも、これ以上はない平穏というものだ。満足せず、惜しいと思えば、千年が過ぎようと一晩の夢のような心地となるだろう。永遠には住み続けられない世の中で醜い姿になってどうしようというのか。命長ければ恥も多い。長くとも四十にならないぐらいで死んでおくのが、やっぱり見苦しくないんじゃないのか。そのあたりを過ぎると、見た目に羞恥心も無くなり、人との付き合いのことを考えて、人生の暮れ方に子や孫のことばかり気にして、繁栄の未来を見届けるまでの命を欲しがり、ただもう世俗的に欲ばかり強くなって情趣の心にも関心がなくなっていくのは、心底イヤになる。
第八段
 世にあって人の心を惑わすもの、色欲に並ぶものはない!人の心は愚かなものだよ。匂いなんかはまやかしのものなのに、わざと衣装に薫をたきつけているとわかっていながら、なんともいえない匂いには必ず心が動かされるものだ。
 久米の仙人が洗濯してる女のふくらはぎの白いのを見て神通力を失ったっていうけど、まったく手足の肌なんかにキレイにムッチリ脂がついてるのは、作り物じゃないからね、そういうことにも当然なるよな。
第九段
 女は、髪がキレイであるのが、人の目も惹くようにみえる。身分や心ばえなどは、話をする声の調子で、物越しでもわかるものだ。
 何かにつけて、ちょっとした仕草で人の心を惑わし、全部、女が、気を緩めて眠りにもつかず、自分を惜しいとも思わず、耐えがたいことにもよく耐えるのは、ただもう色恋に執着があるためだ。
 実に執愛の道、その根は深く、源泉は遠い。六塵の欲望、多くはあろうが、どれも突き放せるはず。その中のただこれだけの惑溺のひとつから抜け出せないのは、老いも若きも、頭の良し悪しも、変わるところないと思う。
 だから、女の髪の毛で縒った網にはでかい象もしっかり繋がれ、女の履いた下駄で作った笛には秋の鹿が絶対呼ばれるとかの言い伝えがあるのだな。自分を律して、とにかく慎むべきなのは、この惑溺だ。
第十段
 住まいに調和がとれていて、好ましいのは、仮の世における一時のものとは思うけれども、趣深いものだ。
 素敵な人が、のびのびと暮らしている所は、差し込んでくる月の光も一際しみじみと感じられる。今風ではなく、キラキラしてるわけでもなく、木立も古びていて、わざとらしく手を加えてもない庭の草も自然な感じで、簀子・透垣の配置もよく、何気なく置いてある調度品も古風な感じがして落ち着きがあるのは奥ゆかしいと思われる。
 多くの職人が、精根を尽くして磨きたてた、中国の、日本の、珍しく、何とも言い様のない調度品などを並べ置いて、庭の植え込みまで自然さを残さず作り込むのは、見た目も苦しく、とても受け入れられない。そうしたまま永遠に暮らせるものだろうか。やはり、時の間の烟となるものだろうと、少し見ただけでも思われる。だいたいは、住まいに、その人柄はうかがわれる。
 後徳大寺大臣の、寝殿に、鳶がとまらぬように縄を張っていたのを、西行が見て、「鳶をとまらせないとは、何とも心苦しいことではないか。この殿のお考えはそのようなものであるか」といって、その後は訪れることがなかったとの話があり、綾小路宮の、いらっしゃる小坂殿の棟に、いつだったか縄が引かれていたので、この話が思い出されたところ、「確か、烏が群れて池の蛙をとるので、御覧になってかわいそうにと思われてのことでして」と人の語ったのは、それはそれは印象深く思われた。徳大寺にも、何か理由があったのだろう。
第十一段
 神無月のころ、栗栖野という所を通って、ある山里に足を運んだことがあった、はるばる苔むした細道を踏み分けていくと、ひっそりと暮らしている庵があった。
木の葉に埋もれている懸樋の雫以外には何にも音をたてるものがない。閼伽棚に菊・紅葉などが折って放ってあるのは、やはり住人がいるからだろう。
 「こういう風でも生きてはいけるもんなんだな」と感慨深く見ているうちに、向こうの庭に大きな柑子の木が枝もしなるほど実がみのっていて、その周りがきびしく囲ってあった。そこに少し興ざめして「この木がなかったらな」と思ったな。
第十二段
 同じ感性を持っていそうな人とじっくりと話をして、楽しいことも世の中のつまらないことでも分け隔てなく言い合って気が紛れるならそれこそ嬉しいことに違いないのに、そのような相手はいるはずもないので「少しでも話がズレちゃいけないな」って向かい合って座っている、そんなのは一人でいるのと同じだろう。
 共通の話題を「その通り!」と聞いてるのもいいんだけど、少しは違う所もあるような人とは「自分はそうは思わない」なんて言い争って問いつめて、「だからさ、こうだろ」とか話し合えたら一人で物思いに沈むような気分もなくなると思うんだけど、実際は、ちょっとした愚痴でさえ、自分と同じじゃない人とは世間一般のどうでもいい話するしかないよな、本当の心の友とは果てしなくかけ離れているんだろう、やりきれないよ。
第十三段
 一人で燈火のあたりで本をひろげて見たこともない世界の人を友とするのは、こよない慰めとなることだ。
 本は『文選』の心に響く各巻。『白氏文集』『老子』『荘子』。この国の学者たちの書いた物も、昔のは心に響くものが多い。
第十四段
 和歌というものはやはり楽しいものだ。卑しい賎民、山賊のすることも、和歌に詠んでみれば風流になる、獰猛な猪も「ねどこのいのしし」と言えば可愛くなるよ。
 近頃の歌は、一部分は上手い表現だというものはあるけど、昔の和歌なんかのように、何故なのか、言葉の向こうにしみじみとイメージの広がりが感じられない。
 紀貫之が「糸によるものならなくに」と詠んだのが、『古今集』の中では駄作だとか評判だけど、今の世の人が詠むことのできるような言葉使いとは思われない。当時の歌はスタイルも言葉もこういう調子のものばかりだった。この歌に限ってそう取り立てて言われているのもわからない。(『源氏物語』には、「ものとはなしに」と改変してこの歌が取り入れられている。)『新古今』では、「残る松さえ峰にさびしき」という歌が駄作のように言われているが、実際、少し統一感がないようにも思われる、しかし、この歌も衆議判の時、良いものでありましょうとの判決があり、その後にも、院が特別に感じ入られ、お言いつけなさったとのことが、源家長の日記には書いてある。
 「歌の道だけは昔から変わらない」などと言うこともあるけど、どうだかね、今でも詠まれるのと同じ言葉・歌枕も、昔の人が詠んだものは全く同じではない。単純素朴で、スタイルもすっきりしていて、感慨深く思われるけどな。
 梁塵秘抄の郢曲の言葉というものには、やはり心に刺さるものが多いようだ。昔の人のは何でもないどれほど無造作に出された言葉でも、どれも素晴らしく思われるものなのだろうか。
第十五段
 どこへであるにせよ、少し旅に出てみるのは目が覚めるような心地がする。
 その辺、あちこち見歩き、田舎びた所、山里などは、かなり見慣れないことばかりある。都へ機会をみつけて手紙を書く「そのことや、あのことを、都合のいい時に忘れるな」などと言い送るのが楽しい。
 そのような場所でこそ、多くのことに気づかされる。持ち物まで、良いものは良いとわかるし、芸事にたけた人、見た目のいい人も、普段よりさらに素敵に思える。
 寺や神社なんかにひっそりと身を隠すのもいいものだ。
第十六段
 神楽ってものは本当に、優雅で、魅力的だ。
 基本は、楽器には、笛・篳篥。外せないのは、琵琶・和琴。
第十七段
 山寺に籠りきって、仏の行に励むと、退屈に悩まされることもなく、心の濁りも清められる気がする。
第十八段
 人は、自らをさっぱりさせ、強欲を抑えて、財産を持たず、俗に溺れないことこそが、重要であるだろう。古来より、賢人が富裕なのは稀なことだ。
 中国の偉人、許由という人は、やはり、自身で持っている貯えもなく、水すら手で掬って飲んでいたのを見て、なりひさこ(瓢箪)という物を人に譲られたのだが、ある時、木の枝に懸けておいたのが、風に吹かれて鳴ったのを、「うるせえ!!」といって捨てた。それでまた、手で掬って水も飲む。どれほど、その心のうちはクールであろうか。孫晨は、冬の時期に衾がなく、藁一束あるのを、日が暮れればこれに寝て、朝になったらしまった。
 中国の人は、これをすごいと思えばこそ、書き記して世にも伝えたのだろう、我が国の人々は、語りも伝えようとしないのだろう。
第十九段
 季節の移り変わりというものは、どれも心に響くものだ。
 「情趣の心は秋が優っている」と、どの人も言うようだけど、それはそうとして、さらにひときわ心が弾むものが、春の景色にはあるだろう。
 鳥の声なんか格別春の感じがして、のどかな日の光に、垣根の新緑が芽吹いてくる頃からが、だんだん春もたけなわ。あたりがぼんやり霞渡って、桜もようやく咲きそうにみえる頃であるのに、そういう時に、雨風が続いて、慌ただしく散り終えてしまう。木の葉が青くなっていくまでは、すべてに、一喜一憂させられる。
 橘の花は非常に評判高い、しかしやはり、梅の匂いってものには、昔のことも呼び戻され懐かしく思い出される。山吹の花はさっぱりと美しく、藤の花はぼんやりと味わい深い様子など、どれもこれも見逃せないものばかりだ。
 「灌仏会の頃、葵祭りの頃、若葉の梢が清々しく茂ってゆく頃というのが、世の風情、人の魅力も溢れている」と、ある方がおっしゃったことが、まさにその通りというものだろうな。
 皐月の菖蒲ふく頃、早苗とる頃、くいなが鳴くのなんか、物寂しくないだろうか。
 水無月の頃は、あばら家に夕顔が白く咲いて、蚊遣の火が煙っているのもいいもので、六月祓もやはりいい。
 七夕祭りは優雅だし、しだいに夜が寒くなってくると、雁が鳴き出す頃、萩の下葉が色づくと、早稲の田んぼを刈り干すなど、取り上げていくと秋は特に多くなる。それと野分の吹いた翌朝とかも本当にいい感じの風情がある。
 書き出していけば、どれも源氏物語、枕草子なんかに言い尽くされてることだけど、同じことはもう一度重ねて言わないでおこう、というわけじゃないし。思ったことを言わないと、腹の中がフラストレーションでパンパンになるし、筆の勢いにまかせた、面白くもない戯言だし、すぐ破り捨てるようなものだから、誰かに読んでもらわなくてもいいんだよ!
 それはそうとして、冬枯れの情景には秋に決して劣らないものがあるだろう。汀の草に紅葉が落ちて引っかかっていて、霜が白々と降りる朝、遣水からぼんやりと蒸気が立ち上るのは素敵だ。年の暮れもせまって、誰もが皆忙しくしている頃ってのは、このうえなく感慨が深い。荒涼としてて見る人もいない月の寒々しく澄んだ二十日ぐらいの空は、本当にやるせないものがある。
 御仏名・荷前の使いが立つのなんかさ、感動的で、おごそかなもんだ。行事が多くて春の準備に重なりつつも開催されていくのは、すごいよ。追儺から四方拝に続いてくのも、いいもんだよなあ。晦日の夜、真っ暗な中松明を灯している真夜中過ぎに、人々の家の門を叩いては走り回っていって、何があったのか、大袈裟にわめきたてる地に足もつかない乱痴気騒ぎが、明け方くらいにはさすがに静まっていく、過ぎ去った年月の名残は物寂しい。亡くなった人が戻ってくる夜として鎮魂する風習は、最近の都にはないけど、関東の方じゃまだやってることもあるっていうの、いいもんじゃないか。
 そうして明けていく空の景色は、昨日と変わったようには見えないけど、何もかもがすっかり変わってしまった新鮮な気分になる。都大路の様子は、門松が立ち並んでいて華やいで喜ばしくって、それはまた心が弾んでくる。
第二十段
 ナントカとかいった世捨て人が「この世に繋がれるものを持たない我が身に、ひたすら空の名残だけは愛しい」と言ったのは、その通りのことと感じるよ。
第二十一段
 多くのことは月を眺めることで心休まるものだが、ある人が「月ほど趣あるものは      ない」と言い、またある人が「露の方がより趣深い」と言い争うのは面白い。
 シチュエーションしだいで、何であれ情趣がでないなんてことがあるだろうか。
 月・花は言うまでもない、風には特に、人は心を動かされるだろう。岩に砕けてさらさら流れる水のさまも、何時であれよいものだ。「沅・湘・日夜、東に流れ去る。愁える者のために留まることは少しもなかった」という詩を読んだ時は、心に響いたよ。嵆康も、「山川に遊んで、魚鳥を見れば、心も解放される」と言った。人から離れ、水や草がきれいなところを散策するのほど、心が癒されることはない。
第二十二段
 何事も、昔の世にだけ惹き付けられる。今のものは、やたらと下品になっていくようだ。かの指物師の造った、美しい器物も
、古風な様式のものこそ素敵と思う。
 文章でも、昔の書き損じなんかは素晴らしい。これと言うことなく言う言葉も、だんだん残念なものになっていくようだ。以前なら「車もたげよ」「火かかげよ」と言ったところを、今の人は「もてあげよ」「かきあげよ」などと言う。「主殿寮人数立て」と言うべきところを、「たちあかししろくせよ」と言い、最勝講の御聴聞所というものは「御講の廬」とこそ言うのを、「講廬」と言う。失望させられると、古風な人は仰せられた。
第二十三段
 権勢の衰えた世とはいえ、やはり皇居の厳かに神々しいありさまは、世俗の風に染まらぬ立派なものだ。
 露台・朝餉・何殿・何門などは、当然素晴らしく思われる。低い身分の者の所にもありそうな小蔀・小板敷・高遣戸なども、立派なものに感じる。「陣に夜の準備を」と言うのはカッコいい。夜の御殿では「速やかに燈火を灯せ」なんて言うのも、またいいよ。上卿が、陣で行事を執り行うさまは勿論、諸々の司の下役人の、したり顔に親しむのも、面白い。すごく寒いなか一晩中、この場所で眠り込むのも面白い。「内侍所の御鈴の音は、美しく、優雅なものだ」とな、徳大寺太政大臣はおっしゃった。
第二十四段
 斎宮が、野宮にいらっしゃるありさまは、品があって、実に雅趣に富むものだと思われる。「経」「仏」などは忌み、「なかご」「染紙」などと言うのも素敵だ。
 全く、神社というのは、嫌われない自然体で美しいものではないか。悠久の森の景色も普通ではない、玉垣で延々と囲み、榊に木綿をかけているのなどは、素晴らしいものではないか。特にいいのは、伊勢・賀茂・春日・平野・住吉・三輪・貴布禰・吉田・大原野・松尾・梅宮。
第二十五段
 飛鳥川の淵瀬のように、永遠はない世の中であるならば、時間がたって、あった事は消えていって、楽しさも悲しみも訪れては去る、華やかだったところも人の住まぬ野原になり、変わらずにある家も住人は違っている。「桃李は何も言わない」なら、誰と一緒に昔を語ればいいのか、とりわけ、ずっと昔に華美を極めていただろう廃墟は、あんまりにもはかない。
 京極殿・法成寺などを目の当たりにして、思いが残っているのに実体は変わっているさまは、本当に寂しいものだと感じる。御堂殿を作って美しく手入れさせて、庄園を多く寄進し、我が一族(藤原家)だけは帝の後見、世の権力者として、いつまでもと思い定めた時には、どんな時代にこれほどまでに荒れ果ててしまうと思われただろうか。大門・金堂など最近まであったけれど、正和の頃(鎌倉時代後期・花園天皇朝・1312~1317)南門は焼けてしまった。金堂はその後倒壊したまま再建される様子はない。無量寿院だけが、その形を残している。丈六の仏九体が、非常に尊く並んでおられる。行成大納言の額、源兼行の書の扉は、今も綺麗なのが痛ましい。法華堂なども、現存している。これも結局、いつまでもつものなのだろうか。これほどの名残さえない場所は、たまたま礎石だけ残ることもあるけれど、はっきり覚えている人もいない。そういうことであるから、何事も自分が死んだ後のことまで考えておくなんていうのは、はかないことであろう。
第二十六段
 風も吹かないのに揺れ動く人の心のときめきに、馴染み覚えた日々を懐かしめば、心動いた言葉の全てを忘れられない。だから、それらが自分の人生とは関係がなくなっていく当たり前のことが、亡くなった人との別れよりもずっと悲しい。
 それだから、白い糸が染まっていくことを悲しみ、道が二つに別れていくことを嘆く人もあったという。堀川院の百首の歌の中に
 『昔見たあなたの垣根荒れ果てて茅花まじりの菫それだけ』
 寂しい光景、そんなことが実際にあったのだろう。
第二十七段
 帝の譲位の儀の節会が行われて、三種の神器が新帝に譲り渡される時は、この上なく物寂しいものだった。
 新上皇になられた花園上皇が退位なされた春にお詠みになさったという
 『殿守の下役人にやる気なく掃かれぬ庭に一面花散る』
 新しい治世の忙しさにかまけて持明院殿には来る人もいないのは、寂しいものだ。こうした時に人の心ばえもわかってしまうものだろう。
第二十八段
 諒闇の喪(天皇の御父母の喪)に服す期間ほど、心がこもったものはない。
 倚廬の御所(喪中の天皇の仮の御所)の様子などは、板敷を下げ、葦の御簾を掛けて、布の帽額は粗末で、御調度品も質素で、人々の装束・太刀・平緒まで、普段とは違い、ただごとではない。
第二十九段
 静かにもの思うなら、何事も過ぎ去ってしまったあの頃の恋しさ、そればかりは、どうしようもない。
 人の寝静まった後、長い夜の退屈しのぎに、たいしたものでもない道具の片付けをして、残しておくまいと思う失敗原稿なんかを破り捨てていくうちに、もう会えない人の書き散らしや、ラクガキなんかを見つけてしまうと、ただもう、当時の気持ちになってしまう。
 まだ生きている人の手紙さえ、時間がたって、「なんの時いつのものだったか」と思うのは、本当にしみじみとするものだよ。使いなれていた道具なんかも、心もなく変わることもなくずっとあるのが、とても悲しい。