2020年3月9日月曜日


『クロイツェル・ソナタ』トルストイ 望月哲男訳
 トルストイという作家は道徳的だと思われている。マハトマ・ガンジーはトルストイが好きすぎて、南アフリカに「トルストイ農場」というものを作ったりしている。このことはガンジーの自伝に書いてある。農場で働くと精神的にも健康になる、しかも野菜しか食わないでも人間は平気、みたいなことをガンジーは平然と書いている。私はガンジーのそういう悩みがなさすぎる道徳の感覚がよくわからない。なんかこわい。ガンジーみたいな道徳はぐいぐいしすぎてて肌にあわない。ガンジーは偉人だが、私とは関係がないと思う。
 トルストイも非暴力主義を掲げるし野菜しか食わないとかいうし道徳的ではあるが、しかしガンジーとはだいぶ違うものがあると感じる。有名な『イワンのばか』は、ガンジーの道徳と同じ調子だが、後期の短編『クロイツェル・ソナタ』には、何か違うものがある。この作品は、妻を刺し殺す夫の話だ。
 毎日生活していて、なぜだかわからない理由で苛立つことがある。ごくごく些細なことが、なぜだか気にさわって絶対に許せなく思えるときがある。口の中にものを入れたまま喋っているのだとか、いちいち鼻をずるずるさせているのだとか、距離感がへんに近いだとか、笑うとき物を大袈裟に叩くとか、足音が不必要にでかいとか、軽はずみな言葉の調子とか、「ちょっと気になるな」ぐらいにすませればいいことに、なぜだか本気で腹がたつことがある。しばらく不機嫌になって、しばらく耐える。少し当たり散らすこともある。そのうちに、なぜあんなつまらないことに腹をたてていたのかが全くわからなくなる。自分がしょうもなく思えて死にたくなる。
 『クロイツェル・ソナタ』を読んでいて、私はこういう経験を思いださせられた。だから読んでいて辛かった。
 このお話は、最後には妻を刺し殺す男が自分の結婚生活がどんなものだったのか語るだけの話だ。別に複雑な過去はない。ただ、私たちが普段送っているような生活のうえでの感情の動きを、深く掘り下げていく。
 「こう言ったよね」「そんなこと言ってない」「嘘ついてる」「ついてない」こうした類いのくだらない食い違いがきっかけで大喧嘩になる経緯が何度も繰り返し書かれる。夫婦はお互いがお互いを軽蔑し、お互いに「あいつ
は自分のことしか考えないエゴイストだ」と思い込む。しかし、実際のところその根拠はない。ただ感情の投げ合いと暴発があるだけで、一体それが本当のところ何が原因なのか、わからない。そういう人間の関係に焦点が当てられている。思い当たることばかりなのに、直視すると面倒だから、なかったことにしていたものが、まざまざと書かれている。
 こういうことは結局性格の問題にされがちだ。当事者間でもそうだし、部外者からみたとしても、性格が歪んでいるから関係も歪むと決めつけられる。それで結局、我慢しろだの諦めが肝心だのと誤魔化される。この小説は、そういうおざなりな片付けかたはしていない。特に興味深く感じられたのは、嫉妬というものの捉え方だ。
 この小説の主人公は、妻の不倫をみて、妻を殺す。だから、裁判では「嫉妬のためである」と裁かれる。しかし、彼は「それは違う。私が妻を殺した原因は、嫉妬であって、そうではない」と言う。
 ここに私は興味をもつ。嫉妬がこれほど出てきながら、嫉妬があくまで些末なことと捉えられているのだ。この小説は、議論があちこちに飛ぶので、主人公の主張の一貫が掴みにくい。が、「嫉妬に狂うのが人間の本性だ」というようなことは、決していっていない。
 嫉妬はあくまで結果であり、原因ではないとされている。妻を殺したこの男が、嫉妬に駆られたのは確かだか、嫉妬に駆られたから殺したという説明は、不十分だとはっきり提示されている。
 嫉妬というものの背後にあるものに、作者トルストイは目を凝らしている。そして、夫婦の間に横たわる人間関係の欠落を取り出そうとしている。人間関係の欠落に置かれた人間は、空しさを埋めようとして、そのために嫉妬に駆られる。憎悪を張りつめさせて、狼藉に及び、結果ますます空っぽになる。「妻を殺した原因は、嫉妬であって、そうではない」とは、いかにも欠落を抱えたもの特有のあやふやではないだろうか。
 しかし奇妙なのは、むしろ自分から自分を、より強い嫉妬へと追い詰めていくかのような主人公のふるまいだ。そもそも妻の不倫だって、防ごうと思うなら防げる立場に、彼は立っていた。にもかかわらず、彼はむしろ自分から、自分にとって屈辱的な場面を招き寄せるような真似をするのだ。彼は自分が嫉妬に怒り狂いながら、冷静に自分の行動が他人にどういう印象を与えるのか、しきりに意識している。まるで何かに操られるかのようにパフォーマンスとして自分を動かしながら、それがなぜだか感情の限りのふるまいともなっている。行動と意識の分裂が強烈にある。嫉妬に駆られるということは、そういうことなのだろう。
 嫉妬とは奇妙な感情だ。喜怒哀楽の感情は、対象がしっかりあるならば、心の動きにはまとまりが感じられるものだ。感情がどこでどう動くのか、自分でもある程度わかる、他人のものも想像できる。たが、嫉妬はわかりづらい。なんだか感情がバラバラで、強烈なくせに一貫性がなくって、何がどうして嫉妬しているのかは誰にも説明がつかない。そして嫉妬の特徴は、根拠もない妄想をもとにして無限に膨らむところだ。
 「妄想性の嫉妬の発生には置き換えのメカニズムが関与している。夫の不貞を空想することで、自分が不貞だという良心の呵責から逃れようとした。」根拠のない嫉妬に苦しめられたある既婚女性を分析して、フロイトが『精神分析学入門』にこう書いている。心理学はそんなに好きじゃないけど、この分析は達見だと思った。人間は、感情の捌け口が無い場合は、それを無理矢理自分の外にこしらえ出す、そうして自分の内側の問題を、外側の問題とすり替える。「自分はこれほど清く正しいのに」「なんか人から思いやりを受けてない」「あいつは汚らわしいことをしているに違いない」「決して許すまじ」「監視するしかない」嫉妬においてはこうした妄想の連鎖が起きる。しかしこれは、当人の周りに実際の原因があるためではない。最初に自分を「清く正しい」と思いたがったことに、そもそもの原因がある。フロイトが言っているのはそういうことだと思う。
 嫉妬のややこしさは、こうした人間の内側と外側にまたがった関係性の中にその根を持つためなのだろう。嫉妬する人間は、自分を不幸に追い込む何かを憎んでいるようで、自分の感情そのものを憎んでいる。自分の感情が自分の善意を裏切っているのに耐えられなくて、この感情は誰かのせいなのだということにする。それは、彼や彼女が、自分は感情的ではない、自分は善人だと思いこみたがったためなのだ。つまり、人は道徳的であろうとして、人を嫉妬することになるのだろう。
 「俺は本当はああいうことしたいが常識的に考えて我慢している、なのにあいつはそれを平然としている、ふざけるな、俺は正しい、あいつは間違っている、なにがなんでもゆるさない!」こんな人は世の中にたくさんいる。今まで不思議に思っていたが、彼らは「嫉妬深い常識人」だったのだなと、気づいた。
 おそらく、禁欲的な人間のほうが嫉妬深くなりやすいのだ。ストイックな人間は、なんだか他人にも自分と同じストイックさを求めがちだし、自分の感情を自分の外の誰かに被せ、それを嫉妬することで自分の感情を抑える。「置き換えのメカニズム」がそこにはあるのだ。この仕組みのこわいところは、ブレーキがないところだ。他人を巻き込んでおいて、実は自己完結しているものだから、どこまでも極端な話になる。
 『クロイツェル・ソナタ』は、極端な議論ばかりしている小説で、たくさん反感を招くことも書いてある。結婚した女は長期の売春婦だとか、子どもは苦しみであってそれに尽きるとか、医者は病気をだしに人を恐喝する詐欺師だとか、そうやってあちこちに極端な言葉を吐き散らすものだから、ついつい「そんなことないぞ」と、言い返したくなる。しかし、この小説の力は、語られる意見よりも、語ろうとする精神にある。
 この小説に宿った精神の振れ幅の大きさを無視して、表面に出た意見をチマチマと後から追って捕まえたところで、何にもならない。結論だけをとってああだこうだ断じることは、トルストイの悩んだ場所からは遠ざかるだけだ。私にとっては、道徳的とは、人間を意見で決めることでなく、精神の幅でみることだ。
 私たちは自分たちで思っているほど善人でも悪人でもない。私たちは勝手に人を善人だとか悪人だとか決めたがるが、それは私たちが知らず知らず嫉妬ばかりしているゆえだ。些細なことに不意に激しい苛立ちを感じたりするのも、手っ取り早く人間になろうとするからだ。感情的だからいけないとは思わない。感情的であることを踏まえず、理性的に見せ掛けた感情的なふるまいをとるうちは、とうてい善悪などという世界が垣間見えてきはしないだろうと思うだけだ。
 「どうせ金めあてに違いない」「どうせ目立ちたいだけ」「男は性欲の塊」「女も虚飾の塊」こんな邪推は、いかにも事実めかして語られる。が、みなただの嫉妬だ。
 嫉妬から出る言葉は激しいが、嫉妬は受身の感情だ。あらゆる対象を自分のところまで引きずり下ろしたいあまりの空しい妄想の悪あがきにすぎない。しかし嫉妬は、道徳と裏表にある。ここがなにより、おそろしい、やりきれないところだ。トルストイはこの矛盾に、全身でぶつかったのだろう。『クロイツェル・ソナタ』は、その精神の姿だ。