2019年10月10日木曜日


ブチャラティについて
 黄金の風で一番好きなのはナランチャなんだけど、気になるのはというとブチャラティだ。ブチャラティは不思議な人だと思う。頭の中がメルヘンとかそういう意味ではなく、何を考えていたのかが最期になっても、はっきりと掴めないところがあった。いい人なのは、有り余るほどわかった。機転が利くのもわかった。みんなに信頼されているリーダーなのもわかる。でも、肝心のブチャラティ本人の一貫した性格がいまいち見えなかった。
 性格が描けていないとかそんなことを言っているわけではない。黄金の風はそんなミスのあるヤワな作品ではなかった。ブチャラティの性格はちゃんと描かれているのに、例えばどんな性格かと尋ねられたら、一言では答えられない。あえて言おうとすると「人間としてカッコいい」とかそんな感じになる。それが不思議に思う。だから気になる。
 ブチャラティの名言といわれてるセリフも、私にはだいたい不思議なセリフとして響いてきた。
「吐き気をもよおす『邪悪』とはッ!
なにも知らぬ無知なる者を利用する事だ……!!
自分の利益だけのために利用する事だ…
父親がなにも知らぬ『娘』を!!
てめーだけの都合でッ!
ゆるさねえッ! あんたは今 再び オレの心を『裏切った』ッ! 」
 一番不思議だったのはやっぱりこのセリフだ。このセリフはジョジョを読む前に既にセリフだけ知っていた。セリフ単体で聞いた時は、その通りだなあ、いい言葉だなあ、名言だなあ、とストレートに思った。でも、漫画で読んでこんな流れで出てくるのかとわかると、急に私には、ちょっと不思議なセリフと化した。そしてアニメで声がついて読み上げられると、すごく不思議なセリフになった。ジョジョのセリフってそういうものだろ?って思って自分を納得させようともしたけど、うまくいかなかった。
 このセリフを言った時のブチャラティは、劇中で最も激昂している。その原因は、ボスが娘のトリッシュを殺そうとしたことへの義憤であるけれども、それだけだとすると「なにも知らぬ無知なる者を利用する」という言葉はちょっと意味が通りにくい。この場面で、利用されたのは、どちらかというとブチャラティであってトリッシュではない。「何も知らぬ『娘』を」と続くものだから、ブチャラティはトリッシュのために怒っているだけのように思えるけど、それと同時に、まず、自分がボスの下劣な企みに利用されたことにブチャラティは怒っている。しかしそれをブチャラティはストレートに出さない。一番怒っている場面なのに、不思議に第三者目線で「人としてのあり方」を語って、その中に自分が利用された怒りを埋め込む。そうして、言いたいことを感情的に言いながら、言葉が透き通っているという矛盾を達成している。ギャングである自分たちを「なにも知らぬ無知なる者」と勢いよく断定するとこも、結構不思議だし、なんて込み入ったややこしい怒り方だ!と私は思った。
 もちろんトリッシュのために怒ったのも、嘘ではない。嘘ではないが、それは怒った原因のひとつであって、全部ではない。ブチャラティ本人は、むしろそのあとの「あんたは今 再び オレの心を『裏切った』ッ」のほうにいると思う。しかしそれを言う時にはブチャラティは既に冷静さを取り戻してボスの追跡を始めていたりする。すごく切り替えが速い。
 なんだか私はどうでもいいところをつつき回しているのかもしれない。ジョジョのシリーズに通底するテーマが語られた部分なだけじゃないか、それを言うブチャラティについて何をそう考えることがある?と自分でもかなり思った。しかし、ブチャラティのことは、どの性格のタイプなのか当てはめてみる、みたいな月並みな診断のやり方ではいまいちわからない。だから、こういうねちっこい詮索みたいなやり方になってしまう。そして結局、何かに逃げられたように思う。
 回想シーンでもブチャラティは不思議だった。他のキャラクターは過去の出来事が明らかに現在の自分に繋がっている印象があった。そのキャラクターの性格がどういうところから来るものなのかが余すところなくわかった。でもブチャラティの回想は、私にはなんだかとりとめがなく感じられた。麻薬を憎む理由はわかったけれど、ブチャラティのあのこわいくらいの決断力と思慮深さや、やさしいモラリストなところとか、にも拘らずしっかり冷酷なギャングしてるところとか、普通は同居しない互いに反発する性質がひとりの人間の内側に収まっていて、しかもとくに破綻しているようにもみえないところが、いったい何に由来するのか、結局わからないままだった。ブチャラティには、外からの「この人はいわゆるこういう人です」というキャラ説明を拒むところがある。
 だからといって、ひねくれているとか、閉じこもっているとか、孤独に苦しめられているとか、そんなネガティブな人でもない。公然と存在しながら、存在がよく見えない。よく見えてないのに、よく見えてないことさえ気づかれない。
 しかし、ブチャラティは自分がない人ではない。自分の言いたいことが言えないシャイな人でもない。自分が充分にあるのに、それをいつも直接出さずに言葉の隙間、行間にしか出さない人だと、私は思う。少なくとも、ブチャラティは、多分普通の人とは「自分の持ち方」が何か違っている。自分というものがある、そしてその表現として言動がある、だから言動を探れば当然当人の自分がわかるという、あたりまえの考えの展開が、ブチャラティには通用しない。
 ブチャラティに意見を求めると、ブチャラティの考えじゃなく、「人としてのあり方」が返ってくる。だから、立派な人だなあ、国語の教師か?と思うと同時に、いつの間にか話をすり替えられたようにも思う。騙されたというのではない、言葉が上滑りしているというのでもない、もっと微妙に、背中を押されつつ突き放されたような感じだ。
 ブチャラティは自分の言葉をいつも「人としてのあり方」という形に潜ませて話していたと思う。どんなに感情的になる場面でも不思議に第三者目線が強くあった。だから何を話してても何かを押し潰したような苦味が常にうっすら漂っていた。その苦味がブチャラティの哀愁で、ハードボイルドで、カッコいいところなんだけど、わかりづらいところでもある。ブチャラティ本人は、その「人としてのあり方」の中にはいなくて、そうやって話される言葉の隙間の空白にいる。不在の中に存在している。私はそう感じた。ジッパーの隙間の中にいるように、ブチャラティはどこかにいるけど、どこにもいない。
 戦いのたびに、あまりにも当然のように自分を捨てるその躊躇のなさに、「カッコいい」より「こわい」を感じることもあった。ザ・グレイトフル・デッドとの戦いからそれは感じていた。話が終盤に向かうにつれて「こわい」印象は強くなった。他のキャラの覚悟ある行動には、そういう「こわい」印象はそれほど感じなかったけど、ブチャラティには、何だってそんなに自分を大事にしないのか、その振舞いに得体の知れないものを垣間見せられたようにも思った。見てはいけないものを見たように思った。
 終盤のブチャラティは、魂だけで生きていて、実際は死んでいる。いわゆる動く死体状態だった。たいていの作品の動く死体は、むしろ生きている人より生き生きしている。生命力が剥き出しになっているって感じで、死そのもののこわさ、不気味さは絵面にしかなかったりする。でも、ブチャラティは、本当に「死にながら生きている」ということがどういうことかを感じさせる振舞いをしていた。そして、その「死にながら生きている」状態は、ブチャラティのもともとの考えかた、行動のしかたが、よりはっきりと出てきたものであるようにみえた。
 ブチャラティが、ジョルノに出会うまで、「ゆっくりと死んでいくだけ」だったのは、心底嫌悪する麻薬を売っている組織を自分が支えている、ということがまずあっただろうけど、きっとそういうブチャラティ生来のかなり独特な「自分の持ち方」にもよるのじゃないだろうか。
 はっきりした言動の輪郭だけがあって、その中身を外から捉えようとすると、もうそこにはいなくなっている。どんな説明も、彼には追いつけない。そして呆然とする。残された言葉はあまりに見事で、生身の人間があれこれ言ってみたってどうしようもないと思う。みんなとは違う、誰も知らないどこか遠い場所に、ブチャラティは立っていたように思う。つまりブチャラティは、存在の仕方そのものが、最初から死者に似ていたのかもしれない。公然と存在しながら、存在がよく見えない。よく見えてないのに、よく見えてないことさえ気づかれない。そういうブチャラティの魂は、最初からこの世のものではない寂寥の中にあったのかもしれない。ジョルノは、そこからブチャラティを少しだけ、しかし確かに引っ張り出したのだと、信じたい。

2019年10月2日水曜日


唐突だけど、まどかマギカの感想

 以前にも見たには見たのだけど、その当時の自分はアニメも漫画もゲームも小説も何でもかんでもとにかく頭に詰め込んでみればいいってスタンスだったので、ひとつの作品をじっくり味わって何にどう感動したかわざわざ考えたりしなかった。だから当時自分の頭の中にあったことは、感想にもならない薄っぺらい反応だけだった。まどかとほむらは百合なんてレベルじゃない!とか、さやかちゃんはかわいそう、とか野中藍は杏子で新境地をみせた、とかマミさんの家の机は三角形すぎる、とか。
 今回見直したら、そういうただの反応の言葉に収まらないものが、自分の中に出てきたので、それを書き出しておこうと思う。
 感動はした。まどかマギカが素晴らしい作品であることは疑い得ない。普通の作品では味わうことのない背筋からゾクゾク登ってくる感情の波があった。それと同時になにか自分との関係が掴めない話を一方的にされたような疲れみたいなのもあった。録画したのを繰り返し見ても、何とも納得いかないものが残っていた。理由はなんだろうと考えた。
 最初に思いついたのは、最後の解決が「設定の書き換え」になるとこへのモヤモヤだった。
強い設定があって強いやつを、さらに強い設定で倒すっていう感じは、観念的な印象が拭えなくってすっきりしない。それはそうなんだけど、不満の重心はそこにはあんまりない。ワルプルギスがあっさり倒されることは、私としては別にどうでもいいところな気がした。作品によっては、最後の敵の倒しかたは物語の肝だけど、まどかマギカは、私にとってそういうものじゃない。まどかとほむらがどうなるかが大事で、敵は添え物だ。
 私の関心は、そこにあったので、「ワルプルギスは結局何だったの?」とかいう疑問も私の中には、なかった。あれはまどかとほむらの人生が始まるのを拒む役でさえあればいいので、それが何だったのかはどうでもいい。そんなことより、まどかとほむらがどういう生き方ができるようになるかが知りたかった。
 まどかが母を振り切ったシーンの感動は凄まじいものだった。そのあとほむらに謝るところも最高だった。でもそこから話のスケールがむやみにでかくなってなんだかよくわからなくなる。
 とはいえ、よくわからないからつまらないという風になるわけでもない。それだったら感想はもっとシンプルで済む。面白いものを見ているという印象は続きながら、感動は途切れている。その事態を引き起こした断絶がどうにも不思議だった。
 おそらくそんな断絶を感じない人も多いと思う。作品の中で話に飛躍があるとは私も思わなかった。話のスケールがでかいんだということは、インキュベーターが前から話していた流れに沿っているわけだし、だから面白いとは思った。しかし、感動できなかった。作品に断絶があるんじゃなく、作品と私の間に断絶がある。これはなんなのかというと、話される内容とそれを見ている自分との連動がなくなった、ということで、つまり私は、何か描かれたこととは別のことをまどかマギカの最終回に期待していたということだ。
 率直に言えば、最終回には、どこかはぐらかされたように思った。
 まどかの願いは限りなく優しいものだと思う。それは否定したくない。でも、別に過去や未来の魔法少女が救われて魔女にならずにすんでも「よかったね」とは思いながら、どこかで「どうでもいい」と感じたのを自分は否定できない。いきなり出てきた見ず知らずの誰かが救われても、私はまどかほど優しくなれないので、なにをどう思っていいのかわからない。だからなのか、はぐらかされたと思ってしまった。ズレを感じてしまった。
 多分私は、世界が変わることよりも、ほむらに生きている実感が持てる将来があるのを期待したんだと思う。背中からよくわからないものを出して、でかい修行僧みたいなのと戦うシーンなんて見せられても、そんなの期待してなかったからどう反応していいのか困った。時を操る魔法と現実的な武器で戦うとこがほむらのカッコいいとこだと思ってたからってのもあって、まどかがいなくなった世界で戦うほむらの姿は、私には印象がぼやけて見えた。
 最終回で一番印象深かったのは、まどかの母とほむらの会話だった。この会話が私にとってのまどかマギカ最終回の全てとさえ言えるくらいだった。強く思ったのは、まどかの母とほむらは似ているんだということだ。私には同一人物を話の都合で分けた分身にさえ見えた。過剰に大人ぶっている努力家で、かつ根っ子の少女趣味を捨てられない。そういう「自分の捨てようと思って捨てられない部分」を守るために、まどかを「自分のそういう部分」の権化にしたてて、ずっとまどかを守っていた。
 まどかの母はそういう人だったように感じる。何だか頼りがいのある女みたいな演技してたけど、自分を肯定しきれないぶん他人を見返そうとして無理をしてる、自分を犠牲にしている人で、そういう人に守られたら、守られる側はしんどい。
 なぜかというと、そういう人は守ることで自分の価値を確かめているわけだから、保護を拒むことはその人を傷つけることになってしまう。まどかが自分の価値を見つけにくかったのは、その能力がないからではなく、まどかがまどか母のことを心のどこかで気遣っていたからだと思う。「もう私は自分で自分を肯定できるので守られる必要がありません」という宣言をして自立することは、愛する人から愛する対象を奪うことになる。しんどいっていうのは、そういう拒みにくい保護の重さのことをいう。
 そしてこの保護をめぐる関係は、まどかとほむらの関係でもあるように思える。まどか母とほむらは似ているというのは、そういうことだ。
 ほむらは自分の人生そのものを肯定できなかった、だから自分を肯定してくれたまどかを、自分を犠牲にして守ろうとした。そういうほむらのゴールは、本当はまどかを救うことじゃなく、まどかがいなくても自分を肯定することなんだと思う。
 そのゴールにほむらがたどり着けたかどうかがよくわからないことが、私がまどかマギカに対して感じたモヤモヤの核なのかもしれない。
 ほむらにとっては「まどかを救うこと」が大事で、「戦い続けること」には意味はなかった。意味があるのが「まどかを救うこと」に限られたのは、まどかを助けない限り自分の人生が無意味になるとほむらが強く思ったからで、このふたりの絆は美しいけれど、排他的でもある。そうなる原因は、「何にも取り柄のない自分を肯定したい」という一番初めの問題を、途中で放り出して、ふたりの絆によってそれを凍結させてたからだ。だから、ほむらのまどかを守ろうとするひたむきな努力は、まどかへの依存でもあるし、自分とまどかを縛る自己犠牲の呪いにもなってしまう。
 あまりにもたくさんの悲劇を強いられたという経緯を踏まえれば、そうなるのも仕方がないよと、同情を禁じ得ないのだけど、まどかとほむらは共依存していた。そして、その閉鎖的な関係から、まどかは外に出ようとした。そこまではまどかマギカにはあって、その先はない。だからほむらは独り中途半端に取り残されている。
「ほむらは弱い自分を認められなかった、だから強い自分になれば、ほむらの物語はハッピーエンドである」とは、私は思わない。ほむらの問題は、自分が強いか弱いかじゃなくって、「自分の世界」の外に出れないことだと思う。まどかの部屋の窓辺に突然死骸を持って現れて闇の中から意味深なメッセージを告げるところなんか、「自分の世界」にだけ生きてるストーカー以外のなにものでもなくて、そういうほむらに私は親近感しかなかったから、しあわせになって欲しいなって本当に思った。ほむらの物語が中途半端に投げ出されたままにみえるのは、かなりの部分私の個人的思い入れによると思う。だから私がまどかマギカという話に何を見出そうとしていたかをもっとはっきりさせないと、私のモヤモヤは消えない。
 捻りのきいた設定の魔法少女の話だとか、かわいい子がたくさん出て酷い目にあう話だとか、ハイセンスで楽しいイメージ溢れる話だとか、まどかマギカのそういうところは私には装飾部分にあたる。根本は、すごくシンプルな人間関係の話だと思う。私の中では、まどかマギカは、閉鎖的な家から自由になるための話だ。
 最初のほうにあったまどかの家の描写でも思ったんだけど、まどかの両親みたいな繋がりというのは、本人たちは自足しきって満たされてるし、表向きオシャレで温かかったりするけど、風通し悪くて誰も入り込めないように出来上がってる。そりゃこんなモデルハウスみたいな息苦しい家で育ったら、まどかは根拠のない劣等感も抱えるよな、と思った。この導入部の印象が、この物語はけして他人事じゃないと私に思わせた。これは、保護が生みだす絶望の話なんだと直感した。誰かを救おうとすること、守ろうとすることが、なぜかその誰かを縛りつけ、自由を、生きる力を奪ってしまう。そして守る側も、最初から見返りなんか求めていなかったはずなのに、いつの間にか自分を義務感でがんじがらめにして、動けなくなってしまう。自分が片意地張ってるだけの馬鹿にしか思えなくなる。マミさん、さやかちゃん、杏子が、残した言葉も、きれいにそうしたテーマを変奏していた。全てに、どうして自己犠牲が人の人生を縛る呪いになるのかという問いがあった。それでも誰かのためと想うことは間違っていないという声があった。人を動かし変えるだけの力があった。
 だから私は、まどかがまどか母のもとから去った時、全てはこのためにあったのだと本当に感動したし、ここまで来たまどかなら、世界を新しくしてしまうのも当然だなと納得した。
 私はまどかの願いに納得はしている、納得はしているが、何かが足りないと思っている。その何かは、色々考えてみても、まどかの側にはない。まどかの願いの結果がどうこうっていうのではない。だとしたら、残るのは、ほむらがまどかの願いをどう受け止めたかだと思った。まどかの願いが何を起こしたかは描かれた。でも私にとっては、まどかの願いが起こしたことより、まどかの願いをほむらがどう感じたのかがもっと知りたかった。ほむらはまどかとの別れを悲しむばかりだったけど、本当のところ、まどかの願いをどう思ったのだろうか。私みたいに「スケールがでかくてよくわからない···」ってなったのか、それとも、その限りない優しさを友として誇らしく思ったのだろうか。ほむらの中に再びまどかへの憧れは宿ったのかどうか。そこのところを伏せないで欲しかった。
 まどかがいなくなっても、まどかの願い自体は、無意味なんかじゃない。残酷な世界ではその存在はみえにくいものかもしれないけど、間違いなく存在する価値がある。なら、それを間近で見届けたほむらが、まどかの残した希望を独りで噛みしめて戦うだけの人で終わっているのは勿体ない。ほむらは自分一人がまどかを覚えていることが大事で、それを自分だけの希望にしているみたいだけど、それで本当によかったのだろうか。まどかは自分の自己犠牲に、ほむらが縛られることなんかは望んではいないだろう。まどかの残した希望は、みんなの希望なのだから、ほむらは、もっと堂々と、まどかの残した希望を誰かに伝える人になってもよかったと思う。そういうものと受け取れるシーンも、最終回のほむらにはあるにはあるけど、どうもはっきりしていない。ほむらが根本のところで孤独から脱け出せなかったのは、まどかを自分を支える口実にするばかりだったからで、まどかが限りない優しさを見せて世界を救っていなくなった後でも、ほむらが今までのありかたを変えずに自己完結しながら戦うのは、虚しい。本気で知らない誰かを助けたまどかの優しさを、ほむらが受け継ごうとする、もっとその方向をはっきり見せてほしかった。ほむらがまどかに励まされて終わるんじゃなくて、ほむらがまどかのように誰かを励ませるようになって欲しかった。長々と書いてみて途中無駄な脱線したりしてやっとわかったが、多分そういうことだった。