2020年4月13日月曜日


徒然草について
 徒然草は古典の代表格のような扱われ方をされているが、実際に腰を据えて読んでみると、かなり変な作品だ。よく鴨長明の方丈記と並べられて「無常観の文学」とか言われるけど、徒然草には方丈記ほどの一貫した達観というものはない。
 徒然草はかなりゴチャゴチャしているのだ。特に序盤の記述は内容も書き方もバラバラだし、何か言いたいことがあるのはわかるが、何を言いたいのかがわからない感じがある。その悶々とした感じには実に自分の身にも覚えがあって、親近感を感じるのだが、どう考えても変な文章だとは思う。
 徒然草の中盤から後半にかけてには、このような変な印象はあまりない。時々エキセントリックな話(大根の精霊とか)が出てきたりはするけど、文章を書く兼好法師の悶々とした悩みが取り付いて文章がぐらついているのは序盤だけだ。徒然草は途中から的確になる。
 著者の兼好法師という人は、鎌倉時代後期の人で、その時代に、もう雅やかな宮廷の文化は消滅寸前だった。でも徒然草の序盤には、「をかし」だの「あはれ」だのが頻発する。平安時代の作品の引用やパロディのようなものも、徒然草には多い。語られる無常の思想も、だいたい中国の古い思想を丸々引っ張ってきているだけだったりする。
 もう時代は貴族のものではなく、台頭する武士の勢いに押されて明らかに今までの文化は時代遅れになっていた。そんなときになって、兼好法師は、宮廷の文化を追随して「をかし」だの「あはれ」だのと書き出しているわけなのだ。そこが兼好法師のかなしいところだ。「それどころじゃない!」ってことは、兼好法師も当然気づいていたはずで、その焦燥が、徒然草がゴチャゴチャする理由のひとつであるとも思う。 
 兼好法師はもともとは法師ではなかった。若い頃は蔵人という、天皇の近侍の職員だった。このポジションは平安時代だったら、立派なものだった。なにしろ天皇の諸々の雑事を取りもつ仕事を任せられているわけで、このポジションを若い時に得ていれば貴族としての出世も明るいもの、みたいなものだった。しかし、兼好法師の時代はもう鎌倉時代の末期で、長い長い戦乱の世が始まりかけていて、貴族の社会はもうガタガタだった。そんな中で、卜部兼好という未来を失った青年は鬱屈していた。そして三十ちょっと過ぎたあたりで、卜部兼好は出家した。それが兼好法師となった。
 そういう人間が、達観したいけれど達観しきれない人間になるのは、仕方ないことだと思う。何か言いたいことがあるのはわかるが、何を言いたいのかがわからない感じになるのは、しょうがないと思う。書いたものが、ゴチャゴチャしてしまうのは当然のことのように思われる。
 そもそも、徒然草はいつ書かれた文章なのかも、よくわかっていない。蔵人時代の若いときから書いていた原稿を、法師になってからも思い付いた時にチマチマ書き足していったものという説もあるし、歳をとった兼好法師が、若いときを思い出したりして一気に書いているのかもしれない。原稿をまとめたのも、本人ではなくお付きの弟子だったとかいう話もある。
 そうした事情もあってのことなのか、徒然草には、統一した主張があんまりない。言ってることが前後で矛盾しているところもかなりある。でも兼好法師は、新しい時代に、そして自分の立場に、心を引き裂かれたのだから、ゴチャゴチャになるとわかっていても、書かずにはいられなかったんだろう。
 兼好法師のすごさは、「達観はしたいけれど、達観しきれない」と達観のまわりをぐるぐるしても、ぐるぐるするしかない自分に対して、決してめげないことだと思う。兼好法師は、そうやって段々その自分の中途半端と折り合いをつけていった。自分を的確にしていった。それにすごく励まされる。
 だから、徒然草をありがたい人生の教科書みたいにしてしまうのは何だか違うように思う。そんな変な尊敬をして兼好法師を遠ざけて、歴史上の人間を現代人の役に立つように加工してしまうのは、しょうもない。歴史上の人間も現代人も、そのまま人間なんだから、そういう風に書くしかなかった人間の感情の必然を、そのまま感じればいい。妙ちくりんな後付けの観念を挟む必要はない。徒然草は特にそういうものだと思う。「無常観の文学」とか、理解のためのしょうもない認識の符号は捨ててしまえばいい。それで魅力を失うものでもないから、徒然草は長いこと、読まれてきたのだと思う。

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