2020年2月25日火曜日


『忍法八犬伝』山田風太郎
 山田風太郎の小説は感動する。感動するのだが、何に感動するのかはよくわからない。書かれていることは、荒唐無稽そのものといえる。出てくる忍法がいちいち性的だし、説明はまことしやかなだけで説明になってないし、登場人物は次々に無惨に死んでいく。こんなハチャメチャな書き方をして、何故破綻しないどころか最後には感動してしまうのか、謎だ。
 山田風太郎の小説は、嘘の塊みたいなものだ。だから山田風太郎の小説はくだらないといわれるかもしれない。この『忍法八犬伝』の主人公の八犬士たち(末裔)は、みな人格に問題がある。「忍法摩羅蝋燭」とか出てくる。しかし私は感動してしまう。ということは、私は、嘘を嘘とはっきりわかっていても、感動してしまうということだ。
 本当のことを言っている、真実のことを伝えている、ありのままのことを叫んでいる、みたいなのが、私はどうも苦手だ。付き合わされるとひどく疲れる。そういうポリシーをもつものには、なんだか圧迫感を受けてしまう。身が縮む思いがする。責められている気になる。
 これは昔からそうだった。だから私はいつも嘘臭いものばかりを好んだ。出来る限りそういう本当のことを言いたがるものから遠ざかりたかった。
 その昔私は「非日常」という言葉が好きだった。だから昔なら山田風太郎の小説の魅力を「非日常」といっていただろう。なんだかそういっておけば、だいたいの変なもの、不思議なもの、嘘臭いものを価値あるものとして認めてやれるみたいな気がしていた。しかし、今はそうはしたくない。「非日常」という考えかたはどこか傲慢なものだと今は思う。
 
 あるとき「日常を取り戻す」という言葉がむやみに使われているのを聞いて、穢らわしいと思った。瓦礫の山を目の前にして、そんなことをほざくことがいかに失われたものへの侮辱になるのかということが、あるとき不意にわかってしまった。失ったものを取り戻せるわけなんかないのに、「日常を取り戻す」ことなんかできるわけないのに、それが可能であるかのようにするのは、あまりに酷いことだと感じた。
 「日常」という考えのもつ、事なかれ主義、何でも見ておいて結局見ないふりをする態度、それが耐えがたく卑怯なものに思われて、私はすっかりいやになった。そして同時に、いままで私の伝家の宝刀であった「非日常」という言葉も、使いたくなくなった。
 「非日常」は、結局は「日常」に戻ることを前提にしている。「日常」にとって目新しいものを、ちょっとしたアクシデントとして求めて、「非日常」と呼んで弄ぶものでしかないように思えた。「日常」に逆らっているように見せておいて、実際のところ、「日常+アルファ」の賑やかしとしての位置しか「非日常」はもっていない。ただの誤魔化しでしかないと思う。
 「非日常」が「日常」を活性化させるなどというのは、たわごとだ。それは「日常」の側からの勝手な決めつけだ。「非日常」に生き続けることが「日常」になっている人にとって、こんな線引きの仕方は不条理だ。
 おそらく、私たちは自分にとっての「日常」を生きるしかなく、「非日常」などというものはそこから逃げたいから生まれる詐術なのだ。世界には、自分の「日常」と他人の「日常」があるだけで、「非日常」などというものは頭の中にあるだけだ。そんなものはただ自分と他人の線引きを誤魔化す、上っ面だけものだ。
 誰かの陥ったかなしい「日常」は、「非日常」ではない。外から「日常」だの「非日常」だのを勝手に判定するのは、人間のやることではない。かなしい「日常」に苦しんだ人が、ごく一般的「日常」を取り戻したところで、失われたものは戻ってきはしない。失われたものは、ずっと失われたままだ。
 失われたものを真剣に捉えようとするなら、人は嘘をつくしかないのだと思う。そこには今はもうないものと関わり続けるためには、本当のことは何の助けにもならない。失われたものを利用して、自分の気持ちも騙して、あの時の真実などと言い出せば、それは今あるものに「感動的実話」として消費されるだけだ。けれど、失われたものに入り込みすぎれば、生きていけなくなる。言葉を失うしかなくなる。
 失ったことのない人間だけが、正直者になるのだ。失われたものを抱えて、それでも生きていくしかないから、人は嘘もつかねばやっていけないのだ。そういう実感なしに、嘘をつくのはただのくだらないことだが、山田風太郎の小説は違う。
 山田風太郎の作品は、嘘に満ちているが、人を騙すようなところがない。嘘が嘘として全力を尽くしているから、綺麗な文章になる。精液が口から溢れ出て死ぬシーンとかあるけど、本当と嘘の線引きがしっかりしているから、清々しい。よりよい「日常」のために、などというさもしい下心がない。
 山田風太郎には『戦中派不戦日記』『人間臨終図巻』といった作品もある。これらと、一連の忍法帳小説に共通するものが私はいまいち掴めずにいた。しかし、それは失われたものを捉える試みだったように思われる。山田風太郎は、戦争と死を、徹底的に捉え続けた作家だったのかもしれない。だからこそ、忍法という大嘘をついた。嘘ということをどこか中途半端にしか考えてなかったから、ずっと気づけなかったが、山田風太郎は、失われたものを「非日常」だなどと誤魔化さず、失われたもののままに感じつづけた人だったように思う。たぶん、そこに私は、心うたれるのだろう。
 山田風太郎の作品は、どれもふざけたような真剣なような、笑えばいいのか泣けばいいのかわからないものばかりだ。でも、失われるということは、そういうことなのだ。生きていくことは失い続けることなのだから、一度失ったものは二度と戻ってきやしないのだ。山田風太郎は立派な人だ。失われたものから決して逃げなかった。その姿に、私は感動させられたのだろう。


『坊っちゃん』夏目漱石
 それほどにしっかり読んだ作品ではない。夏目漱石の作品の中では有名なのだけど、私にとっては文章の喉ごしが良すぎた。「あー面白かった」という印象だけが残っていて、一体なんだったのか改めて考えると、何も自分の中に引っ掛かっているテーマ的なものがなくて、びっくりした。テーマなんて作者にとってはどうでもよくって、読者が勝手に作るものなんだろうなと、夏目漱石の作品を読むとよく思うけど、『坊っちゃん』は、特にそういうものだった。
 私には、この小説は全体として語れることがあまりない。勢いのいい悪口の嵐だったなと、ただそれだけだ。悪口がこんなに詰まっていてそのくせ楽しいという言葉の操りかたに意識が向いて、実際何が書いてあったのか、よく覚えていない。しかし、ある一場面だけ、折々に何度も思い出してしまうものがある。
 それは「ターナー島」の場面だ。気取った教頭「赤シャツ」と、その太鼓持ち「野だ」と一緒に、アナーキーな主人公「坊っちゃん」が釣りにいく場面だ。「赤シャツ」は自分を教養があって、芸術的なことにセンシティブであることをことあるごとにアピールしたくてたまらない男で、釣りの最中に見かけた松の生えた小島を「ターナー島」と名付ける。「ターナー」というのは、松を描くことで有名なイギリスの画家で、「赤シャツ」はその言葉を振り回しているたけでなんだか楽しいらしい。自分が芸術的なものに関わっていられるような気がするようだ。岩と松しかないどうってことない小島を「ターナー島」とか勝手に呼び出して、「赤シャツ」は浮かれている。「赤シャツ」の太鼓持ちの「野だ」は、全くその通りですよ全くターナーそのものでございます、と力の限りのヨイショをする。ふたりは芸術的な、高尚なやり取りができて幸せそうだ。「坊っちゃん」はアナーキーなので、その様子をみても、おれには関係ない、と思うだけだった。人には分からんことを言って、それでもってはしゃぐのは全く下品だ、と私もこの場面で思った。
 そして、この「ターナー島」を私が思い出すのは、「現代アート」的なものを見たときだ。
 「ターナー島」の生まれる仕組みは、これといってたいしたものではない。芸術的でありたい人間が、芸術的な観念を振り回して、現実を塗りつぶしているだけだ。どこにでもありふれたものだ。しかし、なかなか根深い。いくら否定されようがピンピンしている不死身なところがある。こういうものは、しっかりしているから、しぶといのではないだろう。実のところ全く根拠がないから、何を言われても揺るがないのだ。「ターナー島」を生み出すような観念は、それ自体の実体があるわけではないために、しぶとい。観念が、それ自体の正体を持っておらず、人と人の関係に食い込んで、寄生して力を発揮しているのだ。
 「現代アート」も、それ自体の価値というものはあってないようなものだ。しかし、価値がある。なぜか。それは芸術的になりたい人がいっぱいいるからだ。芸術的な観念に関わっていれば、芸術的になれるというのは、すごく楽しいことだ。だから、「現代アート」を作る人も、「現代アート」を支える人もいる。そして、実のところ「対象となるその物」はなんだっていい。「ターナー島」は、島自体は全くどうってことないものだった。しかし、「赤シャツ」にとってそれは何の問題でもなかった。大事なのは、芸術的な観念で、それを人間同士仲間内で回してお互いにやり取りさえできれば、芸術的となる。そして、そのような芸術的は、むしろ、美しい実体を持つものよりも、あからさまに美しく価値あるものとなるのである。
 こんなことは『坊っちゃん』という小説には、書いていない。それは当然の話で、夏目漱石の生きた時代には「現代アート」はなかった。しかし、人間はいつの時代も、それぞれの手口で自分と他人を騙しているのは変わらない。この小説は、そういう人間が人間と結託して作る欺瞞のからくりを、目につく限り蹴散らす。それだけの小説だ。誰にでもわかる、すごくシンプルで痛快なだけの小説だ。だから、「現代アート」が古くなっても、この小説は古くならないだろう。


『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない A Lollypop  or A Bullet』桜庭一樹
 女の子がなんの救いもなくバラバラにされて死ぬ話なのに、この小説にはとんでもなく前向きな力がみなぎっている。「いったいどういうことなのだ?」と、じっくり感じるようになったのは、この小説を読んだ3回目になってやっとのことであった。最初読んだ時は「何だか雰囲気があっていい」ぐらいしか思っていなかった気がする。キャラクターの魅力とか、すっきり読みやすい文章とか、そんなところに目がいっていた。何か得体の知れないパワーがあるのには気づいていたけど、それは「作者の気合い」なのかな、ぐらいにしか思っていなかった。この印象が気にはなっていたから、再読もしてみた。その時は、スティーヴン・キングの『キャリー』に似ているかもしれないとか、なんとなく思った。『キャリー』も、ヘンテコな女の子が出てきて狂った親も出てきて色々あって女の子が死ぬ話だ。この作者桜庭一樹は、お馴染みの話の型を自分流に語り直すのが得意なのかなとか、ぼんやり考えてみたりしたけど、結局この小説に宿っている不思議な引力の正体を自分に納得いくよう捉えることはできなかった。「作者の気合い」よりマシな訳を見つけられなかった。
 3回目になって、やっと、この小説の力が、自分に深く響いてくるようになった気がする。適当な、とってつけた、誰かの引用による説明で誤魔化さずに、「いったいどういうことなのだ?」と、自分の頭でじっくり考えるだけのとっかかりを掴んだように思えた。
 たぶん、この小説を、「女の子の世界」の話だと思っていたのが間違いだったのだ。私は今まで「藻屑」と「なぎさ」の二人の少女が、この小説の主役だと思っていた。なぎさの兄の「友彦」は、絶望的な雰囲気を出すための、ただの脇役だとばかり思っていたが、この引きこもりの兄も、重要なキャラクターだと、読みかえし改めて気づいた。そうして話の全体を捉えなおしてみると、なんの救いもなく死んだはずの「藻屑」が、全ての絶望を背負って死んでいったかのように見えてくる。「女の子の世界」という特殊な一民族の世界を書いたものではなく、もっと広い何かを目指して書いているように感じられた。
 なんというべきか、私には、「藻屑」の死と、「友彦」の社会復帰が、ものすごく直接に関係があることのようにみえた。「藻屑」と「友彦」は、物語の中ではずっと間接的な関係しかなかった。なのに、この二人にはものすごく深い関係があったようにみえたのだ。「友彦」は、世界と関わらないで世界を見通そうとしている少年である。そういう「読者」の目を持った引きこもりである。そして彼は、物語の世界の登場人物である。だから「友彦」は、「お話の中に入り込んだ読者」ともいえる。そう考えてみて「藻屑」の死をみれば、この小説は、かわいそうな女の子が死ぬだけのストレートな話に見せて、実は入り組んだ構造が意識された、つまり「お話の中で人が死ぬということが、私たち(読者)にとってどういうことなのか」と、それを問う、小説といえるのではないだろうか。
 現実において人が死ぬことは、全くやるかたないばかりだというのに、人は物語の中では人を何度も死なせる。最初から死体が転がっている話も多いし、途中で死ぬものも多いし、最後に死ぬのも多い。よくよく考えると、なぜこうも人は人をこうも死なせ、それで感動したりするのだろうか不思議になってくる。
 悪いやつが死ぬとすっきりするというのは分かりやすい。ざまぁみろというのはいつだって気持ちいい。でも悪くない人、むしろ魅力的な人が死ぬほうが、物語の中では、王道のように思える。この小説で死ぬ「藻屑」も、かわった性格をした、かわいそうな、かなしい少女であって、もしこの小説に書かれたようなことが、実際にあったとしたら、それはただただ陰惨で、救われない気分になるだけだろう。でも、この小説の一言一言は、不思議なことに、生き生きとした力を、読者めがけて強烈に発散している。それは、「友彦」という登場人物を使って、「読者」に問いかける構造を持たせたためだと思う。何もかもを「見る」対象にして自分を世界に無関係にするやりかたを「藻屑」の死は突いている気がした。そして、この小説は「なぎさ」が死んでしまった「藻屑」のことを思い出しているという話の進め方をしているものである。「女の子が死ぬ話」でなく、「女の子が死んだのを女の子が思い出している話」であるゆえ、全体に悲惨な出来事が満ちていても、狭い印象の押しつけになっていない。「読者」同士の馴れ合いになずんでいない。語る内容でなく、語る位置の設定が、この小説をただの少女小説ではなく、もっと大きな小説にしている。
 この小説には、普通なら目を背けたくなるようなことがたくさん書いてある。田舎の現実とか、嫌な空気の学校とか、暴力とか。でもその描写のしかたに、厳粛さがある。冷淡に突き放しているというわけではない。誠実であろうとする構えがある。これは悲惨そのものをつつきまわし、泣きわめいたり、糾弾したり、訳知り顔で語ったりする態度とは違う。
 「藻屑」の死体がみつかるシーンは、映像化したりしたら、どうやっても悪趣味になるシーンだ。でも、このシーンはこの小説の中で、一番のシーンだと感じた。映像化すれば悲惨そのもののシーンを、言葉の力で浄化してしまっている。だからこのシーンは、清らかでさえある。本当にすごいシーンである。これほどの悲惨にこれほどの清らかさを与えた作品は他には、水俣病の患者を描いた石牟礼道子の『苦海浄土』ぐらいしか私は思いつかない。
 映像はただ、指示するものであるから、そのもの以上のものを出すことは難しい。たからどうしても奥行きや広がりが出てきにくい。想像の余地が残らない。だが、言葉は喚起するものだから、読んだ人の頭に取りついて、書いてあること以上のことを感じさせることがある。「藻屑」の死体がみつかるシーンは、まさしくそのような、書いてあること以上のものがそこにまざまざとあらわれるシーンだった。
 そしてこのシーンで、私は、自分の中の何かが死んだように思った。そしてそれは辛く苦しいことではなく、なぜだか励まされることであった。読み返すたび、そのような実感が強くなっていった。
 だから私には、この小説が、ただの他人事を書いた嘘というようなものとは、どう考えても思えない。「藻屑」が死体になったとき、私の中の何かも死体になったのだ。書かれたことと私の中の何かが連動を起こしたのだ。そして、目の前が大きく開けたような気がした。
 こうした実感こそが「お話の中で人が死ぬ」ことでしか感じられないものだと思う。人はなぜ物語の中で人を死なせるのかというと、それは突き詰めれば、この実感のためなのではないだろうか。突き詰めなければ、「お話の中で人が死ぬ」ことは、ただの猟奇なものでしかない。怖いもの見たさ、好奇心、暇潰しの玩具でしかない。人の不幸や悲惨をほじくりまわして上から哀れむ見世物でしかない。それは浅ましいことだ。でもそうならないようにすることもできると思う。私はそれを信じたい。人が物語に死を埋め込むのは、人間が人間を他人事にしない感性をめざめさせるためのものなのだと、人間と人間がばらばらにならないようにする祈りなのだと、そう思う。これは答えではない、むしろ問いでしかない。しかし、私たちみんなのための問いだ。それが、この小説にはある。